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【シンガポールで輝け】元U17日本代表「仲村京雅の挑戦」

選手物語
2020年6月13日

アルビレックス新潟シンガポールでの得点後(引用:仲村京雅 Twitter)

 

東南アジアに位置し、世界的な金融センターともなっているシンガポール。今、この国でかつてU−17日本代表としてFIFA U−17ワールドカップでも活躍した仲村京雅がプレーしている。

仲村はジェフユナイテッド千葉U−18を経て、トップチームへ昇格。出場機会を求めY.S.C.C.横浜FC琉球へのレンタル移籍を経験し、千葉との3年間の契約が満了となった。その後、Y.S.C.C.横浜への完全移籍を経てシンガポールへとやってきた。

シンガポールへ来た初年度に所属したアルビレックス新潟シンガポールで活躍し、その年の年間ベストイレブンに選出。その活躍が認められ、翌年はシンガポールの強豪、タンピネス・ローバースFCへ移籍した。

その仲村が海外で生活していて、プレーをしていて感じた「自分と向き合い、行動に起こす重要性」について語ってくれた。

 

仲村京雅

千葉県船橋市出身、1996年4月25日生まれ。ジェフユナイテッド千葉U−18在籍中にトップチームに2種登録選手として選手登録されると共に、U−17日本代表に選出。高校3年次にトップチーム昇格が内定。出場機会を求め、Y.S.C.C.横浜、FC琉球へ期限付き移籍。千葉を契約満了となりY.S.C.C.横浜へ完全移籍。その後、アルビレックス新潟シンガポール(シンガポール)へと移籍し、現在はタンピネス・ローバースFC(シンガポール)でプレーしている。

(JSM契約選手 JSM公式HP http://j-sm.jp/ )

 

世代別代表にも選出されたエリート時代

千葉U−18時代(引用:web.gekisaka.jp)

 

「仲村京雅」

サッカーファンの方なんかは、この名前を聞くとピンと来る人もいるのではないだろうか。言わずと知れたエリート街道を走ってきた仲村。中学1年から3年間ナショナルトレセンに選出。当時について「自分が1番だと思っていた」と語っているように、仲村は常に世代のトップを走ってきた。

ジェフユナイテッド千葉U−18に在籍していた高校時代には、U−17日本代表としてFIFA U−17ワールドカップを戦い、現鹿島アントラーズの三竿健斗や、東京オリンピック世代の三好康児(ロイヤル・アントワープFC)らと共にチームの16強入りへと貢献している。

 

「高校年代で世界を知れたのは大きかったです。特にパス、シュートの違いは明らかでした。この大会をキッカケに『止める・蹴る』をしっかり意識して練習するようになりましたね」

 

当時のU−17ワールドカップについてこう語る仲村は、帰国後も順調に成長し、高校3年次に念願のトップチームへの内定を勝ち取る。このトップチーム昇格は仲村にとっては非常に感慨深いものであった。

 

「自分は小学生の頃に親友と従兄弟が他界してしまい、ずっと必ず2人の分もプロになると決めていました。この2人がサッカーをやりたくてもできな状況になってしまい、自分はサッカーが健康でできているというのをこの時、改めて自覚することができました。なのでトップチーム内定が決まった時は素直に嬉しかったですし、2人の分も頑張ろうと誓いました。」

 

小さい頃からの目標を叶え、さらなる高みへと意気込んでいた。しかし、ここから初めてのプロ生活がスタートするわけだが、待っていたのは厳しい現実だった。

 

念願のトップチーム昇格を果たすも...

ジェフユナイテッド市原・千葉に加入内定が決まった時(引用:ジェフユナイテッド市原・千葉 公式HP)

 

U−17日本代表での活躍を自信とし、プロ生活1年目へと臨んだ仲村だったが、待っていたのは厳しい現実だった。

 

「千葉在籍3年間(期限付き移籍期間含む)で出場数0」

 

これが仲村の千葉での結果だった。千葉U−18ではチームの主軸として活躍し、世代別の代表にも選出されていて、確かな手応えはあった。決して驕り、慢心があった訳ではないが、自分の思い描いていたプロ生活とはかけ離れたものだった。

 

「試合に出れない日々が続いていて、どうすれば試合に出られのかと焦っていました。監督にも直接聞きに言ったりしたんですけど、当時の自分は監督の言っていることすらも直接受け止められなかったんです。今思い返せば、結果を求めすぎていて周りが見えなくなっていたんでしょうね。」

 

千葉に在籍していたのは期限付き移籍期間を除くと実質1年ほど。出場機会を求め、1年目の途中に当時J3Y.S.C.C.横浜へ期限付き移籍、2年目に半年間ほど千葉へ復帰するものの、またも出場機会に恵まれず、当時J3のFC琉球へ期限付き移籍。3年目に再びY.S.C.C.横浜へと期限付き移籍をし、同年、仲村は千葉を契約満了となった。

「こんなはずじゃ...」当初は千葉で全く結果を残すことができず、とにかく悔しかっただろう。しかし、その一方、移籍先で学んだことも大きかったと仲村は語っている。

 

「期限付き移籍したチームでは試合に出させてもらっていたんですが、その時に『試合に出なければ成長しない』というのを改めて感じました。ここで結果を残せなかったら次はないという気持ちで1日、1日を過ごしていましたし、プレー1つ1つに拘ってサッカーが出来るようになりました。」

 

特に、当時FC琉球の監督を務めていた、キムジョンソンとの出会いが自分にとって非常に大きかったという。

 

「自分はボランチ、トップ下をやっていたんですけど、ボールを受ける時に前を向かずに後ろ向きでボールを受ける時が多かったんです。その時にキムジョンソン監督から『真ん中はどれだけ前を向けるか。前を向いた時に何を出来るかが重要』という事を言われハッとしました。そこからですね。自分のプレースタイルが大きく変わったのは。本当に成長できました。」

 

千葉での3年間の契約を満了となった仲村は、Y.S.C.C.横浜へ完全移籍をする。この時、仲村は22歳で大学4年生の代。「環境を変えなきゃ自分のサッカー人生は終わる」そう直感的に感じていた。ここで仲村はある決心をする。それが海外移籍だ。

 

初の海外・待っていた新たな苦悩

背番号10、キャプテンマークを巻く仲村(引用:仲村京雅 Twitter)

 

「自分がY.S.C.C.横浜へ完全移籍した年が、22歳になる大学4年生の代で、試合にもそこそこ出場して翌年の契約更新の話もありました。ただ直感的にこのタイミングで環境を変えないと自分のサッカー人生は終わると感じていました。そう感じている時にアルビレックス新潟シンガポールからのオファーがあり、すぐに移籍を決断しましたね。これだ!って思いました。」

 

初めての海外でのプロ生活。ジェフユナイテッド千葉を3年で契約満了となった悔しい思い、Y.S.C.C.横浜、FC琉球での経験、新たな地でゼロからのスタート、様々な思いを背負って仲村はシンガポールへとやってきた。

 

「10得点、10アシスト。リーグMVP獲得」

 

これが仲村が掲げたシンガポール1年目の目標だった。仲村がアルビレックス新潟シンガポールへ来たのが2019年。それまでのアルビレックス新潟シンガポールは16年、17年、18年と3年連続リーグ優勝。さらに18年はリーグ戦無敗優勝という圧倒的な成績で優勝している。つまり19年は、4年連続リーグ優勝が掛かっていた年だったのだ。

仲村は背番号10番、チームのキャプテンを任された。

 

「前年が無敗優勝という圧倒的な成績を残していて、自分自身プロになってから初めてのキャプテンというのもあり、プレッシャーしかありませんでした。最初は、これからチームをどうまとめていこうか、どうすれば勝てるチームになるのかという事で頭がいっぱいになっていました。これまでは常に上の先輩がまとめてくれる環境にいたので、ある意味、これは新しい葛藤でもあって楽しめていた自分もいましたね。」

 

リーグ戦4連覇の重圧、初めてのキャプテンの重圧、結果を残さなければいけないという重圧。様々な重圧を抱えて臨んだシンガポール1年目だったが結果はリーグ戦4位。仲村個人としても7ゴール、8アシストで目標を達成することは出来なかった。

 

「自分達は勘違いをしていたのかなと思っています。自分達は成功できなかったからこのチームに来ている、このチームから成り上がっていくためにきている。ここの認識の甘さが出た1年でした。」

 

と語っている仲村だが、目標にこそ届かなかったものの7ゴール、8アシストという結果を残し、年間ベストイレブンにも選出されている。

 

「初めての個人タイトルでしたが、素直に喜べない自分がいました。目標まで3ゴール、2アシスト足りなかったですし、欲しかったのはベストイレブンではなくリーグMVP。自分が思い描いていたのと違う結果になったので悔しかったです。」

 

個人的には納得のいく結果では無かっただろうが、これほどの結果を残した選手を同じシンガポールリーグのチームが黙っているわけがない。シーズン終了後、仲村に声をかけたのはシンガポールリーグの強豪、タンピネス・ローバースFCだった。

 

「ここを踏み台に」決意の移籍

外国人選手として戦う仲村(引用:仲村京雅 Twitter)

 

「ここを踏み台にして飛び立って欲しい」

 

これがタンピネス・ローバースFCから言われた言葉だった。

 

「こんな事を言ってくれるクラブがあるのかって感激したのを覚えています。このクラブと一緒に自分も成長しようと即決しました。」

 

シンガポールリーグを1年間戦い、なぜ同リーグのローカルチームへと移籍をしたのか。

 

「タンピネスはAFCカップへの出場が決まっていたというのが、このチームを選んだ1番の決め手ですね。日本にいたら国際大会を経験するなんて中々できないことだったので。」

 

仲村はこのAFCカップで、パスの受ける率、出した率、成功率が現時点で大会参加選手1位を記録している(1試合あたりの平均)。

 

「どこで誰が見ているか分からないですからね。特にこういう国際大会なんかは。今年はこういう数値も意識してプレーしていこうと考えています。ボランチとしてボールの受ける、出すは1番重要ですから。」

 

タンピネス・ローバースFCに移籍してから順風満帆な日々を過ごしている仲村。アルビレックス新潟シンガポール時代は、良くも悪くも日本人コミュニティの中で生活をしてきたわけだが、今は外国人選手としてプレーをしている。昨年と同じリーグではあるが、境遇は全く変わったと仲村は言う。

 

「アルビ時代は監督も日本人でしたし、チームメイトも大半が日本人だったのでコミュニケーションで困ることはほとんどありませんでした。しかし今は全てが英語なのでとにかく必死です。聞くのも伝えるのもとにかく必死ですけど、決して自分の殻に閉じこもるようなことはしません。自分が必死になって伝えようとすれば、相手も必死に聞き取ろうとしてくれるんですよね。なので自分から積極的に話しかけるのは意識していますね。」

「後は練習メニューに驚きました。言い方が悪いですけど、ローカルのチームは適当なイメージがあったんですけど全く違いました。監督が試合を編集した映像を選手に毎日送って共有しますし、練習メニューもポゼッション主体で『体格を生かしたどか蹴り』サッカーではなく、しっかり繋ぐサッカーを目指していることに驚きました。」

 

必死に伝わようとする姿勢は、海外でサッカーをしていく上で間違いなく大切なことだ。日本人はどうしても照れや、恥ずかしさのせいで、うまく外国人とコミュニケーションを取れない人が多いと筆者は思う。しかし、仲村も言っているように、自分が必死になって伝えようとすれば、相手も必死に聞き取ろうとしてくれる。

まだ英語は全然話せないと本人は言っているが、英語の勉強は欠かさずやり、これほど必死にコミュニケーションを取っているからこそ、チームからも認められて馴染んでいるのだと思う。

 

「必ずしも日本で成功する必要なんてない」

大観衆の中でプレーする仲村(引用:仲村京雅 Twitter)

 

仲村自身、海外へ来てから考え方や価値観が大きく変わった。

 

「僕は海外へ来てから日本の当たり前が世界では当たり前ではないという事に気づけました。これは日本にいては気づけなかったことです。 その国その国での当たり前があって、素晴らしさがある。今では日本で当たり前だった事に感謝するようになっています。」

「これから海外へ出ようと考えている人は、是非、勇気を持って一歩踏み出して欲しいです。サッカーはもちろん、私生活でも日本とは違うことだらけ。それが良い意味で自分の変な固定概念を覆してくれます。『日本で成功してないから』なんて考えていませんか?日本で成功できなくても海外で成功できるなんてことも全然あります。〜だからと言い訳から入らず、自分としっかり向き合いましょう。」

 

インタビューをしていて、仲村の人柄の良さ、サッカーに対する情熱を感じた。これは日本でも海外でも同じだが、成功出来るかできないかなんていうのは完全に自分次第。どれほど自分と向き合えて、行動に移せるか。

仲村の海外プロ生活はまだ始まったばかり。仲村は自分が今何をすべきなのかを認識している。今後もっともっと活躍していくのは間違いないと筆者は思う。

最後に仲村の今後の目標を聞いてみた。

 

「昨年、成し遂げることができなかったリーグ優勝と年間MVP獲得。今年シンガポールリーグで優勝すると、来シーズンにアジアチャンピオンズリーグに出場することができるので、そこで日本に凱旋するというのが今の目標です。」

 

現在、仲村はSNSを活用した情報発信を積極的に行なっていて、自身のYouTubeでシンガポール生活について動画投稿を行なっている。シンガポールのリアルな生活が観れるので、こちらも是非チェックしていただきたい。

 

 

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