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【ラオスリーグ復帰の真実】内田(山崎)昂輔「”縁”を大切に生きる」

選手物語
2020年7月12日

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新型コロナウイルスの影響により、例年通りのスケジュールが組めずにストップしていた2020年のサッカー界。日本のみならず、世界各国で大きな影響を受けている。

 

それは、東南アジアのサッカー界も例外ではない。その国々でプレーしている選手たちにとっては多大なる影響を受けており、プレーする場所を失う選手も存在しているのが現実だ。

 

そんな中、例年より大幅に遅れて7月11日に開幕したラオスリーグ。昨年1部リーグで準優勝だったマスター7FCに入団した【内田(山崎)昂輔】選手は、「人との縁」からオファーを受けてチームに加入した。

 

世界的に苦しい状況のサッカー界で、内田選手はなぜ「プロサッカー選手」としてラオスのチームから必要とされたのか。内田選手のサッカー人生をたどってみると、その答えが見えてくる。

 

※引用:ヤンゴン・ユナイテッド公式フェイスブック

 

 

地元京都から強豪・滝川第二高校へ

 

京都府出身の内田選手は、京都紫光サッカークラブのジュニアチームでサッカーを始めた。一度は兵庫県へ引越しをするも、再度京都府へ戻り、中学時代までを同クラブで過ごした。その後、全国高校サッカー選手権出場を目指して、兵庫県の強豪・滝川第二高校へセレクションを経て進学。

 

同学年には「デカモリシ」の愛称でサッカーファンから親しまれている森島康仁選手、一学年上には日本代表ストライカーとして長年活躍する岡崎慎司選手、一学年下には現在名古屋グランパスに所属する金崎夢生選手など、のちに日本サッカー界を牽引していく選手達と共に高校時代を過ごした。

 

3年生で迎えた最後の高校サッカー選手権では、全国ベスト8の成績。しかし、この時点で内田選手の元にはJリーグからのオファーは無かった。それでもプロサッカー選手の夢を諦めることができず、関西大学リーグの強豪である立命館大学へ進学した。

 

 

立命館大学への進学とブラジル留学

 

立命館大学からプロを目指す内田選手にとって、大きなターニングポイントとなる出来事を経験する。

 

「大学1年の夏休みを利用して、ブラジルとアルゼンチンに短期間留学をしました。元々、三浦和良選手が好きなこともあり、南米サッカーに強い憧れを抱いていました。現地に行く前の南米サッカーのイメージは、足元の技術やドリブルが上手いんだろうと思っていたのですが、実際には球際の激しさやフィジカルコンタクトの強さに衝撃を受けました。また、自分の知らない土地で、はじめて会う人たちとの”出会い”そのものが新鮮で、サッカーはもちろんのこと、それ以外の部分でも大きな刺激を受けました。」

 

南米へサッカー留学をした経験が内田選手にとって大きな刺激となり、当初は「このまま現地に残りたい」と発言していたほどだった。しかし、当時の大学サッカー部の監督と話し合いの末に日本へ帰国。この時は海外でのプレーを実現するには至らなかったが、のちに内田選手が海外で活躍するきっかけとなるターニングポイントだった。

 

※引用:ゲキサカ(立命館大学時代)

 

 

大分トリニータ入団へ

 

最終学年となった大学での4年目。チームの中心選手として活躍していた内田選手は、当時J2に所属していた大分トリニータの練習に参加。そこでのプレーが評価され、同チームと契約。プロサッカー選手としてのキャリアを日本でスタートさせた。

 

加入1年目は19試合に出場する結果を残すも、2年目は怪我の影響からシーズンを通じて出場試合数は0。大分とは2年契約だったことも重なり、2年目のシーズン終了と同時に契約満了となりチームを退団した。

 

新天地として向かったのは、当時JFLに所属していたFC琉球。トライアウトを経て同チームに入団した。15試合に出場し、1ゴールの成績を残すが、内田選手はこのタイミングで大きな決断を下すこととなる。

 

※引用:ゲキサカ(大分トリニータ時代)

 

 

海外挑戦のはじまり

 

FC琉球に加入する前のタイミングから、欧州に繋がりのあるエージェントとコンタクトを取っていた内田選手。その中で具体的に名前が出てきた移籍先が、東欧のバルカン半島に位置する国の「モンテネグロ」だった。

 

FC琉球を退団後にモンテネグロへ直接足を運び、現地でのトライアウトに参加。ここでモンテネグロ1部リーグのFKグルバリと契約を結ぶ。しかし、すんなりと現地でプレーするまでには至らず、紆余曲折を経て同2部リーグのFKボケリへレンタル移籍することとなった。

 

「トライアウトでは現地で2チームの練習に参加しました。その結果、1部リーグのFKグルバリと契約したのですが、プレシーズン期間の練習中に構想外のような形になってしまいました。紅白戦にすら参加できなかったほどです。このままだと試合に出場できず、次のチャンスに繋がらないと思い、エージェントに相談しました。その結果、2部のFKボケリにレンタルという形で、リーグ開幕前に移籍が決まりました。」

 

モンテネグロでの痛烈な洗礼を浴びながらも、内田選手は怯むことなくプレーし続けた。所属したFKボケリは2部リーグを2位で終え、1部リーグ下位のチームと入れ替え戦へ挑む。ホームでは勝利を収めたものの、残念ながらアウェー試合で敗戦し、昇格を掴むことはできなかったが、初の海外挑戦という意味では大きな充実感も得ていた。

 

「東欧はお金が無い国々が多いですが、そこから”サッカーで這い上がるぞ”という雰囲気が日本では味わえない感覚であり、自分にとってはとても刺激的でした。ピッチ上では、フィジカルコンタクトが激しく、グラウンドは沼のようにぬかるんだ状況。そのような環境の中でプレーする事も、当時の自分にとっては物凄く楽しかったです。初めての海外生活で毎日必死でしたが、そういう部分も含めて充実した時間でした。」

 

モンテネグロでの半シーズンを終えたのち、内田選手は自身のステップアップを目指してオーストリアへ向かう。当初は2部のチームでのトライアウトに参加する予定だったが、「移籍ウインドウが既に終わっている」との事実を現地で知った。

 

その後、様々な縁が重なり、同リーグ4部のドイチェランドバーグSCへ移籍を果たしたが、加入から数試合を終えたタイミングで家族の問題があり、急遽日本へ帰国することとなった。

 

 

ブラジルでの失敗を糧に

 

日本へ帰国後は、再度プロサッカー選手の道へと戻るべく準備を重ねた。そこから最初に向かった先は東南アジアのベトナム。知り合いを通じてベトナム現地に向かったが、チームとの契約をつかむまでには至らず、次はタイに向かうも同じくチームとの契約が決まらない時間を過ごす。その状況のなか、現地で知り合った人を通じて「ブラジル」行きの話しを受けた。

 

「昔から憧れていたブラジル。テストだとしても、チャンスがあるなら行ってみたいと思いました。そして、意を決してブラジル現地に向かったんですが…。現地に着くと、聞いていた話しと違う部分が多く、紹介してくれた方が現地エージェントに騙されていたということに気付きました。ブラジルでは観光ビザで入国していた事もあり、3ヶ月の期間内に自分のことをどうにかしないといけない状況となってしまいました。」

 

大学生以来に戻ってきた憧れのブラジルだが、内田選手にとっては厳しい現実が待っていた。現地チームの寮で、16~17歳のユース選手たち約20人が寝泊りする部屋の隅っこでひっそりと暮らす生活。チーム練習が無い時間帯に、そのチームのグラウンドを借りて自主トレーニングをする日々。そんな生活を送るなかで、内田選手自身には心境の変化が起きた。

 

「自分の行動にしっかり責任を持たなければならないと、このときはじめて自覚しました。それまでは、チームを探したり移籍したりする際に、どこかエージェント任せにしていた部分があり、少しおおげさに言えば自分の人生をしっかり歩めていなかったなと思います。ブラジルでの出来事がきっかけで、チーム探しなどを全て自分の責任で行おうと考え直し、自らチームにコンタクトをしたりするようになりました。何事においても、ひとつひとつの行動が変わったと思います。」

 

ブラジルに来た内田選手のことを、傍から見れば「失敗」とみなす事もできる。しかし、その失敗から内田選手は「学び」を経て、「経験」に変える行動を取った。

 

その結果は、すぐに目に見える形となって現れる。

 

 

運命の国・ラオスへ

 

ブラジルでの滞在中、次のアクションを起こすべく様々な情報を探っていた内田選手。そこで発見したのは、Twitterに記載されていた「ラオスリーグ」の選手募集情報だった。

 

「Twitterの情報を見て、すぐにそのチームへ直接連絡を入れました。そのチームからは、もし契約することになれば飛行機代も支払ってくれると。ブラジルに留まっていても前に進むことができなかったので、そのトライアルに行くことを決めました。そうして向かったのが、ラオス1部リーグに所属していたランサン・ユナイテッドのトライアウトでした。」

 

ラオスリーグの強豪チームの1つであったランサン・ユナイテッド。多額の資金力を武器に国内外の良い選手たちを集め、ラオスリーグの一時代を築いた東南アジアのビッグクラブである。トライアウトを経て同チームとの契約を勝ち取った内田選手は、2014年の後期シーズンと、2015年のフルシーズンをラオスで戦うこととなった。

 

「少しでも結果が出なければ、選手がすぐに入れ替わるような環境のチームでした。結果に対してシビアで、とても厳しい環境だったと思います。ただ、チームは自分のことを評価してくれていて、1年半プレーすることができました。ブラジルでくすぶっていた自分を拾ってくれたと思っていて、とても感謝しています。」

 

※引用:ランサン・ユナイテッド公式フェイスブック

 

 

初の東南アジア・ラオスでのプレー。様々な経験を積んできた内田選手は、ランサン・ユナイテッドからの信頼を勝ち取り、チームの中心選手としてプレーした。

 

そしてまた、新たな挑戦がここから始まろうとしていた。

 

 

日本人選手初・バーレーンリーガー

 

ラオスリーグのランサン・ユナイテッドで活躍した内田選手は、チームとの契約を満了してフリーとなった。

 

「1年半ラオスでプレーしましたが、新たな国に挑戦したいと考えていました。ランサン・ユナイテッドからは契約更新の話しも出ていましたが、自分の気持ちを素直に伝え、チームとは契約を更新せずフリーになりました。そして、フェイスブックを通じて知り合ったエージェントを介して、向かった先は中東のバーレーンです。当時は、まだ日本人選手がプレーしていなかった場所で、そういう国に挑戦してみたいと思っていました。」

 

現地のトライアウトではトレーニングマッチに出場。そこでのプレーが評価され、2016年にバーレーンリーグ2部のブダイヤクラブと契約。日本人選手初のバーレーンリーガーとなり、新たな挑戦をスタートさせた。後期リーグから加入し、半シーズンを同チームでプレーした。

 

「自分が加入したチームはカテゴリーが2部だったこともあり、決して資金力が豊富なわけではありませんでした。ただ、トライアウトで戦った最初のテストマッチの相手が、バーレーンNo1のチームで、チームの規模やサッカーのレベル等とても高いと感じました。それでも、他の1部リーグのチームと自分がプレーしていたブダイヤクラブは、そこまで差が無かったと思います。環境面では、どのクラブも自前のトレーニング場を持っていて、サッカーだけに限らずバスケットなどの室内競技施設を持っていたりします。総合スポーツクラブのようなイメージですね。素晴らしい環境の中でプレーできたと思います。」

 

このような環境のなか、日本人選手初のバーレーンでプレーした内田選手。シーズン終了後、加入したブダイヤクラブとの契約更新には至らなかったが、更なる展開が内田選手を待ち構えていた。

 

※引用:内田選手・本人提供

 

 

電撃復帰からの大活躍

 

バーレーンに移籍する前、そしてバーレーンでのシーズン中も含めて、古巣であるラオスのランサン・ユナイテッドは何度も内田選手の復帰を求めていた。その結果、バーレーンでの挑戦を終えたタイミングの2016年後期から、ラオスのランサン・ユナイテッドへ復帰を決めた内田選手。

 

「何度もランサン・ユナイテッドのオーナーから連絡を受けていて、これだけ自分のことを求めてくれるのならラオスで再度プレーしようと思いました。選手として、とてもありがたいことだと思います。後期リーグからチームに合流し、そのまま2016年はリーグ優勝を経験することができました。ラオスに戻ってくることができて本当に良かったと思います。」

 

その勢いは、国内リーグだけではなく、国際大会でも躍進を遂げた。

 

「東南アジア諸国のチャンピオンチーム同士が対戦するメコンカップに出場しました。チームは決勝まで勝ち進み、タイの強豪であるブリーラム・ユナイテッドと対戦しました。アウェイでは残念ながら負けてしまい、優勝自体は逃してしまったのですが、ホームでは勝利を収めることができました。ラオス勢としては快挙と言われていて、本当にいい経験でした。」

 

ラオスでの躍進は留まることを知らず、内田選手は更なる活躍を期待され、AFCカップ(アジア諸国による国際大会)を控えるランサン・ユナイテッドとの契約を残していた翌年もラオスでプレーするはずだった…。

 

※ランサン・ユナイテッド公式フェイスブック

 

 

何があっても前を向く

 

オフシーズンのため一時帰国していた内田選手。生まれたばかりの子供と共に日本で結婚式を挙げた。祝福ムード一色の雰囲気の中、その空気を切り裂くような情報が内田選手の元に飛び込む。

 

「これからラオスに戻ろうというタイミングで、ランサン・ユナイテッド解散のニュースをフェイスブックで知りました。結婚式の翌日のことで…。チームとの契約が残っていた状況だったので、まずはラオス現地に向かいました。そのニュースはやはり事実で、チームは解散が決定。契約関係の手続きを済ますのに約2ヶ月ほどかかりました。しかし、そのタイミングでインドネシアにテストに行けることになり、現地へ向かったのが2017年3月の話しです。」

 

突如チームが解散し、所属チームを失った内田選手。それでもインドネシアへ向かい、同リーグ1部のペルセラ・ラモンガンとの契約を果たし、自分が活躍する場所を手に入れた。

 

熱狂的なサッカーファンが多いことで有名なインドネシアでも活躍を果たした内田選手は、2018年シーズンにミャンマーリーグの強豪・ヤンゴン・ユナイテッドへ移籍。2019年も含めて、2シーズン同チームでプレーした。ヤンゴン・ユナイテッドでは、ACL(アジアチャンピオンズリーグ)のプレーオフにも出場した。

 

そして、2019年シーズン後期は再びインドネシアに戻り、同リーグのPSバリト・プテラにてプレー。アジア各国でプレーする代表的な海外組サッカー選手となった。

 

※引用:ヤンゴン・ユナイテッド公式フェイスブック

 

 

「縁」を大切に生きる

 

2019年にプレーしたPSバリト・プテラとは契約が満了。2020年シーズンは新たなチームを探すところからスタートした。しかし、コロナウイルスの影響を受けて新天地探しは難航。世界各国のサッカー界がストップしてしまい、そのままチーム探しの方も進展が無いまま時が流れた。

 

そんな中、ラオスリーグが2020年シーズンのリーグ開催日程を発表。7月から開幕する見通しが立つと、現地の各チームは選手編成に急ピッチで取り掛かる。その状況の中、内田選手に声を掛けてきたのが、ランサン・ユナイテッド時代に一緒にプレーしていたラオス人選手のPern(パン)だった。

 

「Pern(パン)は僕がランサン・ユナイテッドを離れるときに、わざわざ1人で空港まで送りに来てくれました。ラオス人では珍しく英語も堪能で、当時からよくコミュニケーションを取っていました。ラオスを離れてからも連絡を取っていて、2019年に起きたラオスでの大規模洪水の時は、彼を通じて救援物資を提供したりもしました。何かと縁がある人です。」

 

そして、Pern(パン)からの連絡は、彼の身内がチームに携わっているラオスリーグ1部のマスター7FCへ「加入しないか?」という内田選手へのオファーだった。

 

「Pern(パン)を通じて、マスター7FC加入の話しを受けました。長い期間チームが無い自分にとっては、プレーできる場所があるだけでも感謝です。プレーしたいと返事をすると、すぐに契約書が出てきて逆にびっくりしましたが、これも何かの縁ですよね。Pern(パン)との縁、ラオスとの縁、様々な縁があって今回の移籍が実現しました。」

 

人との縁がラオスリーグ復帰につながり、サッカー選手として活躍する場所に戻るきっかけとなった。内田選手が歩んできたサッカー人生のなかで、様々な人との縁を大切にしてきた証のひとつと言えるだろう。そして、人に頼るだけではなく、責任感を持って自分の人生の選択をしてきた結果が、今の内田選手の活躍につながっていることを、インタビューを通じて感じさせられた。

 

Jリーグから始まったプロサッカーキャリアは、夢描いたヨーロッパではステップアップに至らず、憧れていた南米でも思うよに結果を掴むことができなかった。それでも、自分が生きる道を模索し、アジア各国で活躍する内田選手。その生き様は、ラオスをはじめとする世界各国のサポーター、そして日本の人々を勇気付けるに違いない。

 

2020年シーズン、ラオスの内田(山崎)昂輔選手に注目だ。

 

※引用:リーガ・インドネシア公式フェイスブック

 

■プロフィール
内田(山崎)昂輔
1987年10月2日生まれ 京都府出身
ポジション:MF

 

■ユース経歴
京都紫光サッカークラブ
滝川第二高等学校
立命館大学

 

■プロ経歴
2010年 – 2011年 大分トリニータ(日本)
2012年 FC琉球(日本)
2013年 FKグルバリ(モンテネグロ)
2013年 FKボケリ(モンテネグロ)
2013年 ドイチェランドバーグSC(オーストリア)
2014年 – 2015年 ランサン・ユナイテッド(ラオス)
2016年 ブダイヤクラブ(バーレーン)
2016年 ランサン・ユナイテッド(ラオス)
2017年 ペルセラ・ラモンガン(インドネシア)
2018年 – 2019年 ヤンゴン・ユナイテッド(ミャンマー)
2019年 PSバリト・プテラ(インドネシア)
2020年 マスター7FC(ラオス)

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