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「今は、とてもサッカーが楽しいです。」
2021年シーズン、ベトナム1部リーグのサイゴンFCに移籍した【禹 相皓(ウ サンホ)】選手の言葉である。
東欧の小国であるモンテネグロから始まった禹選手のプロキャリアは、自身のルーツである韓国を経由して、2018年にJリーグへ移籍。FC岐阜、愛媛FC、栃木SCでのプレーを経て、今シーズンから活躍の場を東南アジアのベトナムに移した。
現在はサイゴンFCの中心選手として活躍しており、チームメートで元日本代表の松井大輔選手らと共に、今シーズンのベトナムリーグを牽引する存在だ。
発展途上中のベトナムサッカーリーグにおいて、外国人選手に対する期待はとても大きく、それがときには巨大なプレッシャーへと憑依する。そのような厳しい環境の中でも充実感を言葉にするのは、しっかりとした理由が存在する。
「サッカーを楽しむことの重要性を改めて実感しています」
このように語る禹選手のサッカー人生は、一体どのような道をたどってきたのか。彼の「心」にスポットライトを当てることで、その答えが見えてくる。
北海道札幌市にて生まれ育った禹選手。5歳から地元の札幌ベアフットというチームのスクールに通い、幼い頃からサッカーボールを追いかた。小学校5年生時に、北海道の強豪クラブチームであるSSS札幌サッカースクールに加入。憧れていた「プロサッカー選手」になることを目指し、中学卒業までを同チームでプレーした。
北海道内で名の知れた選手に成長した禹選手は、高校入学と同時に横浜F・マリノスユースへ加入。その後、高校2年生の時に柏レイソルユースに移籍。プロサッカー選手を目指すために、地元を離れてJリーグの下部組織でプレーした。
柏レイソルユース時代はトップチームの活動に帯同する機会も多く、プロサッカー選手になることが現実味を帯びてきた。しかし、高校3年生の最後にチームから伝えられた結果は「NO」。トップ昇格目前で、禹選手の夢は叶わずにユースでの活動を終えることになった。
「高校3年生の頃は、トップチームの練習にいつも帯同していました。自分では『トップに昇格できるかもしれない』という気持ちを抱いていましたが、残念ながら結果は上がれませんでした。そこから大学への進学を考えたのですが、すでに多くの強豪大学は推薦枠などが埋まっている状況で、どうしようかと悩んでいたところ、千葉県リーグの明海大学が声を掛けてくれました。」
「自身自身へのチャレンジ」
この想いを胸に、明海大学への進学を決意した禹選手。同大学サッカー部では入学当初から試合に出場し、中心選手として4年間チームを牽引してきた。
入学当初はサイドアタッカーを務めることも多かったが、3年生からボランチに転向。現在でも禹選手が得意とするポジションで、「ボランチに変わって良かった」と、当時を回想する。
「元々は前線やサイドアタッカーのポジションでプレーすることが多かったのですが、一番活躍できるポジションは中盤であると自分自身で薄々感じていました。なので、ポジションが変わったことは、後に自分がサッカー選手として生きていくにあたっての、1つのターニングポイントだったのかもしれません。」
大学サッカーから、再度プロサッカー選手を目指した禹選手。
大学4年生の頃には、多数のJリーグチームへ練習参加をしており、柏レイソルユース時代と同様にプロサッカー選手になれるチャンスは存在していた。しかし、目の前に突きつけられた現実は厳しく、プロクラブから正式なオファーが届くことはなかった。
「今思い返せば自分が尖っていただけなのかもしれませんが、『プロサッカー選手』という目標にこだわってきたからこそ、大学卒業後にJFLや地域リーグのチームへ入団する道は選択できませんでした。そのため、一般企業への就職活動も行っていて、色々なことに対して悩んでいた時期でした。ちょうどそのタイミングに、とあることがきっかけで『海外挑戦』という選択が生まれました。」
禹選手へ海外挑戦の道筋を示したのは、東欧のラトビアやモンテネグロなどでプレー経験のある豊嶋邑作選手。柏レイソルユース時代の1学年先輩にあたり、欧州でのチャンスがあることを教えてくれたという。
欧州の移籍マーケットが開かれる夏の時期に渡航日を合わせて、プロになるための「最後のチャンス」に賭けると決断した禹選手。大学卒業後から夏までの期間は、生活費や渡航費を工面するためのアルバイトに励んだ。
また、当時関東リーグに所属していたFCコリアは、禹選手の状況に理解を示し「夏までの短期間で良いからFCコリアでプレーしよう」と声を掛けてくれた。数試合ではあるが、リーグ戦にも出場し、渡航までの期間も真剣にサッカーへ取り組める環境が整った。
2015年の夏、禹選手は東欧のモンテネグロに向けて出発。現地では、多くの日本人選手の受け入れとステップアップを導いてきた大迫貴史氏を通じて、モンテネグロ1部リーグのOFKペトロヴァツを紹介された。アドリア海岸沿いに位置し、リゾートタウンでもあるモンテネグロのペトロヴァツをホームタウンに構える同チームには、2週間ほど帯同した。
そこでの活躍が評価された禹選手は、正式にOFKペトロヴァツと契約。日本から9,272 km離れた東欧の小国で、プロサッカー選手としての人生がスタートした。
「海外に行くこと自体には抵抗がありませんでした。小学生の頃にインターナショナルスクールに通っていたこともあり、元々英語を話せたことも少なからず影響していたかもしれません。とにかく、失うものは何もなかったので、捨て身の覚悟で現地に向かったことを今でも覚えています。結果的に、契約することができて本当に良かったです。」
しかし、現地での生活やサッカーを取り巻く環境は、決して恵まれたものではなかった。
「Jリーグのクラブと比べると、クラブハウスやピッチコンディションなど、良いとは言えない環境でした。サッカーのプレーに関しても、日本のように組織で戦うのではなく、1対1の個人で勝つことが常に求められます。同じサッカーなのに、全然違う競技をしている感覚でした。ボールを扱う技術的な面では日本の方が優れているかもしれませんが、フィジカルコンタクトの激しさは強度がとても高かったです。チームの成績も前期は調子が悪くなかったのですが、後期は全く勝てずに降格ギリギリの状況で、苦しい戦いが続いたシーズンでした。」
現地でもっと良い成績を残せていれば、欧州でステップアップしていくことを選択できたかもしれないと、禹選手はモンテネグロ時代を回想する。サッカー選手として初めて挑んだモンテネグロでのシーズンは、プロの世界の厳しさを痛感する1年となった。
モンテネグロでのシーズン終了後、両親が韓国人である禹選手の元にはKリーグのチームから連絡が届く。当時、韓国2部リーグに所属していた大邱FC(テグFC)は、韓国籍である禹選手に目をつけてトライアルのオファーを出した。
禹選手は現地に直接足を運んで同チームの練習に参加し、見事に契約を勝ち取る。海外挑戦2カ国目の場所は、自分のルーツである韓国に決まった。
「日本で生まれ育ったので、韓国語は全くわからない状態で行きました。ただ、現在は日常会話レベルであれば問題なくコミュニケーションを取ることができます。移籍したのはシーズンの途中からでしたが、初年にリーグ戦で優勝することができ、1部昇格を決めました。」
2016年シーズンに大邸FCは韓国2部リーグを制し、1部リーグへの昇格を決めた。翌年の2017年シーズンも禹選手は契約を更新し、同チームでプレー。シーズンを通じて8位の成績を収めて、1部リーグ残留を決めた。
禹選手自身はチームに加入した当初からコンスタントに試合へ出場していたが、1部リーグでのプレーとなった2017年シーズンの終盤は、怪我などで戦列を離れる機会が多くなる。大邸FCでは1年半の期間を過ごした後、2017年シーズンを最後に退団することが決まった。
「Jリーグと比べた時に、チームとして戦術的に戦うことは日本の方が優れていると思います。ただ、韓国では1対1での球際の激しさやデュエルの部分を要求される機会が多く、この点は日本と違う部分です。選手個人のレベルも高く、いい経験ができた期間となりました。」
新たな移籍先を模索した禹選手の元には、韓国国内のチームや中東のクラブなどから話が持ち上がる。しかし、禹選手が選択したのは、自身が生まれ育った「日本」だった。
2018年、当時J2に所属していたFC岐阜に移籍。モンテネグロから始まったプロキャリアは、韓国を経由して、子供の頃から目指していた「Jリーガー」にようやくたどり着いた。
「Jリーグでプレーできたことは純粋に嬉しかったですし、楽しかったです。FC岐阜では、センターバックやボランチ、シャドーなど、あらゆるポジションでプレーしましたが、なかなかスタメンを勝ち取るまでには至らず、半年で愛媛FCにレンタル移籍すことになりました。その後、愛媛FCでは1年半プレーし、2020年からは栃木SCへ移籍しました。」
2018年シーズンの途中、FC岐阜からレンタル移籍で愛媛FCに加入し、同チームで2019年シーズンまでプレー。その後、2020年シーズンに栃木SCへ移籍。Jリーグでは合計3シーズンプレーしたが、禹選手の心境には変化が起きていた。
「生まれ育った日本は様々な面で環境に恵まれており、良くも悪くも『居心地の良さ』を感じていました。ただ、モンテネグロや韓国でプレーしていたときの『ハングリー精神』や『危機感』が少し失われている気もしており、自分の心と葛藤するようになりました。また、私生活でも結婚や子供が生まれたりと色々な変化があったなかで、サッカーに対しての考え方にも変化が起きました。自分勝手にただサッカーをするのではなく、家族のために戦いたいという気持ちです。自分を求めてくれる場所で『貪欲にサッカーと向き合いたい』という想いが生まれました。」
さらなる高みを目指して挑戦を決意した禹選手は、2020年シーズン限りで栃木SCを退団。その視線は、再び海外へ向けられていた。
心境の変化が生まれた禹選手の元に、とあるオファーが届く。
「代理人の方を通じて、ベトナムのチームからオファーをもらいました。ただ、移籍を決めるために与えられた期間は2日間のみで、すぐに妻と相談しました。時間は短かったですが、自分の素直な想いを告げて、ベトナムに行くことを決意しました。」
サッカーと真剣に向き合うために、そしてサッカーを本気で楽しむために、禹選手はベトナム1部リーグのサイゴンFCへの移籍を果たす。新たなる挑戦の舞台は、灼熱の東南アジアを選択した。
日本人にとって、あまり馴染みのないベトナムリーグ。しかし、サイゴンFCは禹選手の獲得と同じタイミングに、元横浜FCの松井大輔選手や、元FC岐阜の高崎寛之選手などの加入を発表。さらに、同チームは2020年にFC東京、2021年にはFC琉球との提携を発表しており、Jリーグとの関わりが強いチームでもある。
禹選手らの移籍を機に、日本でも少しずつ注目を集めているベトナムリーグ。現地のサッカーを取り巻く環境などについて話を伺った。
「日本や韓国などのアジアトップと比べると、サッカーのレベルは正直劣りますが、様々な可能性を大いに秘めているリーグです。また、ベトナム現地ではサッカーが人気で、とても熱狂的な雰囲気が漂っています。ですが、芝生の状態が悪いスタジアムが多く、その影響がプレー面にも現れています。足元がボコボコしているので、グラウンダーのパスを繋ぐことが難しく、自然とロングボール主体のサッカーになってしまいます。現地のベトナム人選手のなかには、高いポテンシャルを秘めた選手もいるので、環境面がもっと整えば、サッカーのレベルや内容も自然と上がるのではないかと思っています。」
まだまだ発展途上中のベトナムリーグだが、大きく飛躍する可能性を秘めていると、現地でプレーする禹選手が語ってくれた。
今季のサイゴンFCが多くの日本人選手を獲得したニュースの他にも、川崎フロンターレが主催する「ベトナム日本国際ユースカップU-13」が毎年開催されていたり、2021年シーズンにセレッソ大阪がベトナム代表のGKダン・バン・ラム選手を獲得するなど、ベトナムサッカー界の「日本化」は着実に進んでいる。
ベトナム現地のサッカーに直接関わっている選手だからこそ、禹選手の実体験を交えた話には説得力がある。
「Jリーグは、欧州サッカーの良い部分を取り入れて発展してきた過去があると思います。地域に密着したクラブ運営やマネジメント、マーケティングなど、欧州トップリーグのクラブをモデルにしてきた結果、今のJリーグが存在しています。ベトナムの場合、その対象が日本や韓国などアジアトップの国々です。特に日本のJ1は観客動員も多いですし、地理的にもベトナムと日本の距離はそう遠くありません。その点も含めて、ベトナムが日本のサッカー界を参考にしていることを考えると、将来的にベトナム代表が日本代表の脅威になる可能性は十分に秘めていると思います。」
かつてJリーグの創成期に多くの世界的スーパースターが来日し、日本のサッカー界が急激に発展したように、現在のベトナムリーグは大きな転換期を迎えている。そのような環境でプレーする禹選手は、「いま、とてもサッカーが楽しいです」と話していたのが印象的で、現地での充実感が言葉の節々から溢れ出ていた。
ベトナムへの移籍を決断して良かったと語る禹選手。
「ベトナムに来て、改めてサッカーを楽しむことの重要性を感じています。毎日が充実していますし、今の自分の立場でのやりがいも感じています。もちろん、プロ選手としては待遇面なども大切ですが、レベルや環境に関係なく、一番はサッカーを楽しむことです。この気持ちに気付くことができたのは、勇気を持ってベトナムに来たことが大きく影響していると思います。」
生まれ育った日本でサッカーを続けることも選択できた禹選手だが、あえて茨の道を選んだ。しかし、そこで待っていたのは、「充実」を感じるベトナムでの日々。人間誰しも、安定を手放すことは決して容易ではないが、禹選手は自らの力を信じて挑戦する道を選んだ。
異国の地で充実した日々を送る禹選手は、今後どのような未来を描いているのだろうか。
「コロナウイルスの影響で無観客試合が多く、試合をしていてもサポーターが入っていた頃のようなスタジアムの盛り上がりはありません。そのことから、『多くの観客の前でプレーして、人々の心を動かせるような選手でありたい』と、改めて自分の理想に気付くことができました。もちろん、自分が生まれ育った日本の子どもたちに夢を与えられるようなプレーヤーでありたいとも思いますが、今自分がプレーしているベトナムの人たちにも同様に、夢を与えられるような選手でありたいです。」
一人のフットボールプレーヤーとして、さらなる高みを目指す禹選手。
選手としてだけではなく、その後のビジョンについても話を伺った。
「まだ具体的ではないところもありますが、トレーナーの資格を取りたいと考えています。その理由は、『頑張りたい』という向上心を持った若い選手たちのなかには、いま何をするべきか分からない選手がいると思っていて、まさにそれが若い頃の自分でした。『それなら指導者を目指せば?』と思われるかもしれませんが、サッカーチームの指導者だと、そのチーム全体の方向性を示す必要があり、一人一人の選手と深く関わる時間が少なくなってしまいます。それに、良い指導者の方はすでに多く存在していると思っています。それであれば、自分は向上心のある選手と直接向き合う時間を長くして、その選手を背中を押してあげられるような存在になりたいと考えていて、その第一歩がまずはトレーナーの資格だと考えました。そのためにも、今は自分がプレーすることに全力で取り組みたいです。」
幼い頃から自分の可能性に賭けて戦ってきたからこそ、「向上心」を上手くコントロールできないことへの苛立ちや苦悩を理解することができると語る禹選手。そのため、昔の自分のように心の葛藤を抱える選手や子供たちに対して、自らの経験を交えながら、正しい方向へ導いてあげたい気持ちが強い。
近い将来、禹選手と関わった選手が日本や韓国、ベトナムなどのリーグで活躍する日がくるかもしれない。そのような選手たちが活躍する未来の可能性を広げるためにも、禹選手は今日も灼熱のベトナムで戦っている。
いま目の前にいるファンやサポーターのために。そして、将来の可能性がある子どもたちの「未来」のためにも、挑戦を続ける禹選手。彼こそ、「真のフットボーラー」と称するに相応しい選手だ。
ベトナムからサッカー界を鼓吹するフットボーラー、禹相皓選手の活躍に今後も目が離せない。
■プロフィール
禹 相皓(ウ サンホ)
1992年12月7日生まれ 北海道県出身(国籍:韓国)
■ユース経歴
ベアフット札幌
SSS札幌サッカースクール
SSS札幌ジュニアユース
横浜F・マリノスユース
柏レイソルユース
明海大学
■プロ・アマ経歴
2015 FCコリア(日本)
2015-2016 OFKペトロヴァツ(モンテネグロ)
2016-2017 大邸FC(韓国)
2018 FC岐阜(日本)
2018-2019 愛媛FC(日本)
2020 栃木SC(日本)
2021 サイゴンFC(ベトナム)