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「もう一度、ピッチに立ちたい。」
この想いを胸に、ソサイチ(7人制サッカー)で現役復帰を果たした【山田 樹(やまだ いつき)】選手。サッカー選手時代には左サイドを主戦場とした、技巧派のレフティーだ。
シンガポールでプロキャリアをスタートさせると、その後は東南アジアの3カ国でプレーし、2017年にブラウブリッツ秋田へ移籍を果たす。秋田へ加入した初年にJ3優勝の原動力となり、チームの中心選手として2018年シーズンも活躍を見せていたが、シーズン終盤に突如「現役引退」を発表。
28歳という年齢で引退を決意した真相は何だったのか。また、それから約2年の時を経て「ソサイチ」で現役を復帰した経緯は何なのか。
その時々で山田選手が抱いてきた「想い」は、一人のフットボーラーとしてのリアルな心情が垣間見れる。
京都府出身の山田選手は、地元の鳳凰サッカースポーツ少年団にてサッカーを始める。小学生時代からナショナルトレセンに選出されるなど、メキメキと頭角を現していき、中学生からは京都サンガF.C.U-15に入団。高校年代(U-18)も同チームでプレーし、6年の時を過ごした。
左サイドバックとして活躍していた山田選手には、トップチーム昇格の話も持ち上がっていたが、結果的に高校卒業時はプロ契約を果たすことができなかった。しかし、自身の夢を諦めることができず、立命館大学へ進学。同大学のサッカー部から再びプロの世界を目指した。
関西学生リーグの強豪である立命館大学サッカー部では、のちにJリーガーになる選手を多数抱えており、レギュラー争いも熾烈だった。入学当初、山田選手はトップチームの試合に絡むことができなかったが、日々の練習でサッカーと真摯に向き合い、3年目からはレギュラーポジションを掴む。しかし、プロサッカー選手への道のりは、決して簡単なものではなかった。
「大学卒業後にJクラブへ入れる確率は、良くても『五分五分』だと自己分析していました。もちろん、本気でプロサッカー選手を目指していましたが、客観的に見て厳しい立場にいると感じていました。そこで、日本国内だけではなく、『海外』という選択も視野に入れるようになりました。今振り返ると、大学の先輩や同期に海外へ挑戦した選手がいたことが、大きく影響していると思います。」
自身の夢を叶えるために、海外への挑戦も視野に入れてプレーしていた山田選手。京都サンガF.C.時代のコーチへ相談したり、海外でプレーしていた選手と連絡を取るなど、海外挑戦の可能性を模索していた。
全国大会出場やJクラブへの練習参加など、国内でもプロサッカー選手になるチャンスはあったが、残念ながら大学卒業時に山田選手の元へ正式なオファーが届くことはなかった。しかし、それと同時にとある海外チームのセレクションを受けていた山田選手。
その行動が、サッカー人生の大きな転機となる。
Jリーグのアルビレックス新潟と提携関係にあり、2004年よりシンガポールのトップリーグへ参戦している「アルビレックス新潟シンガポール」。同チームのセレクションが日本国内で行われており、山田選手はそのテストに参加していた。
セレクションの結果は見事合格。山田選手のプロキャリアは、日本から5,246km離れた東南アジアの都市国家で、大学卒業と同時にスタートした。
「海外へ行くこと自体に抵抗はありませんでした。それよりも、サッカーで生きていく環境に身を置けることの喜びが大きかったです。また、当時のアルビレックス新潟シンガポールは、チームメートが全員日本人という特殊な環境だったこともあり、純粋にサッカーをプレーすることができました。」
プロサッカー選手として初めて挑んだ2013年、シーズン開幕から左サイドバックのレギュラーとして試合に出場し、チームの中心選手として活躍を果たす。翌2014年にはキャプテンを務め、2015年には2つの国内カップで優勝を果たした。
「正直、最初にシンガポールへ来たときに『関西学生リーグの方がレベルが高いのでは?』と感じた時期もありました。しかし、ここはプロの世界です。求められるものは結果で、チームとして勝つこと、個人としても数字を残すことなど、プロ選手としての『厳しさ』を猛烈に痛感しました。事実、1年目、2年目は結果を残すことができませんでした。それでも、在籍最後のシーズンにカップ戦で優勝をすることができ、プロとして初のタイトルを取ることができました。」
アルビレックス新潟シンガポールで3シーズンを過ごした山田選手。チームへのタイトルを置き土産に、次の挑戦へ向かう。
シンガポールでの初年を終えたオフのタイミングで、ドイツでのトライアウトを受けた山田選手。小さい頃から憧れていたヨーロパへ挑戦するために、1ヶ月ほど現地へ向かった。しかし、結果は上手くいかず、翌年の契約延長オファーを受けていたアルビレックス新潟シンガポールでプレーすることになる。
このような経験をする過程で、山田選手の心境に変化が起きた。
「小さい頃からヨーロッパに憧れがあったのでドイツに挑戦しましたが、結果は上手くいきませんでした。しかし、とても有り難いことにアルビレックス新潟シンガポールでチャンスをもらい、全力でサッカーと向き合っていく過程で、『自分はいま、東南アジアでサッカーができている。それであれば、東南アジアでサッカー選手としての価値を高めていこう』という気持ちに変わりました。そこで、選手としてのステップアップを目指すために、移籍を決意したのが2016年です。」
エージェントの真野浩一氏(GOAL Sports Agency 代表)を通じて、山田選手は移籍先を模索。当初は、東南アジアNo.1の呼び声が高いタイリーグへの移籍を検討していた時期もあったが、ラオスリーグの強豪であるラオ・トヨタFC(現:FCチャンタブリ)への移籍が決定した。
同チームはAFCカップ(アジア諸国による国際大会)への出場も控えており、選手としての価値を高めるには十分な環境。また、日本人だけでメンバーが構成されていたアルビレックス新潟シンガポールとは違い、現地のラオス人選手と共にプレーする「外国人選手」として、クラブから期待を寄せられていた。
「チームに加入した当初は試合に絡めない時期もあり、外国人選手としてプレーすることの難しさを痛感しました。また、東南アジアで生き残るために、目に見える数字(結果)にこだわる必要性を強く感じていたので、ポジションをサイドバックからサイドハーフに変えました。その点でも、移籍当初は難しい部分があったのですが、徐々に試合に絡めるようになり、ゴールやアシストという数字も残せるようになりました。」
チーム内での地位を確立していった山田選手は、ラオ・トヨタFCでのAFCカップ出場を果たす。マレーシアの強豪、ジョホール・ダルル・ダグジムFCとのアウェーゲームでは、4万人の観衆が集まるスタジアムでプレー。また、山田選手自身も同大会を通じて2アシストを記録するなど、存在感をアピールした。
ラオスでのプレーを終えた後、2017年はタイのカスタムズ・ユナイテッドへ移籍を果たす。当時、同チームはタイ3部リーグに所属していたが、元々はタイ2部リーグに所属していたクラブであり、待遇面で良い条件を準備していた。また、山田選手のポジションはボランチとして構想されており、「新たなチャレンジが面白そう」と直感的に感じたそうだ。
そのような経緯でタイへの移籍を果たしたが、シーズン開始から数試合を消化したタイミングで、Jリーグのブラウブリッツ秋田(当時J3)への電撃移籍が発表された。
「実は、タイへの移籍が決まった時期(2016年末)に、一度ブラウブリッツ秋田からオファーがありました。そのときは、タイのカスタムズ・ユナイテッドと契約をした直後だったので断りを入れたのですが、2017年3月にもう一度オファーがありました。『日本でプレーできるチャンスがあるなら挑戦したい』という気持ちが自分の中で強くなり、移籍を決断しました。」
日本の移籍期間が締め切られる直前に交渉が成立し、Jリーグもすでに開幕していたタイミングで異例の移籍を果たした山田選手。加入直後の天皇杯で初出場、2017年4月30日に開催されたリーグ戦、FC琉球戦にてJリーグでも初出場を果たす。その試合ではJ初ゴールも記録し、チームの勝利に貢献した。
「逆輸入Jリーガー」の快進撃は止まらず、チームの中心選手としてブラウブリッツ秋田の左サイドに欠かせない存在となり、同シーズンにはJ3優勝を達成。
シーズン途中からの合流で「難しいことも多かった」と、移籍当初の様子を回想する山田選手。しかし、当時のブラウブリッツ秋田を率いていた杉山弘一監督(現:京都サンガF.C. コーチ)が、アルビレックス新潟シンガポール時代の監督だった縁もあり、「このチャンスをモノにしたい」という気持ちが強かったそうだ。
「秋田での2017年は、チームと個人の両方で結果を残すことができた最高のシーズンになりました。チームはJ3優勝を果たし、個人では年間を通じて4ゴール。かつての自分は、オーバーラップで積極的にゴール前へ顔を出すようなタイプの選手ではなかったのですが、東南アジアで培った『数字にこだわる』ことを、Jリーグでも発揮することができました。それは本当に嬉しかったし、自身の成長を実感することができました。」
初めて挑んだJリーグで存在感を示した山田選手。翌年の2018年シーズンもブラウブリッツ秋田との契約を延長することになり、期待は深まるばかりだった。
Jリーグ初挑戦となった2017年シーズンの終盤、「グロインペイン症候群(ランニングや起き上がり、キック動作など腹部に力を入れたときに鼠径部やその周辺に痛みが生じる怪我)」を発症し、戦列を約2ヶ月間離れていた山田選手。翌年の2018年シーズンも故障が完治せず、痛み止めを服用しながらプレーを続けていた。
それでも、チームの中心としてプレーしていた山田選手は、怪我を抱えていたにも関わらず、シーズン通算の試合出場数はチーム内で上位の結果を残す。しかし、熾烈なレギュラー争いは、肉体的にも精神的にも大変過酷なものであり、その代償は大きかった。
「グロインペイン症候群を発症し、痛みを誤魔化しながらプレーを続けていました。しかし、秋田での1年目、2年目ともに、シーズン終盤の約2ヶ月間はプレーできない状態に陥ってしまい、肉体的な部分はもちろんのこと、精神的な面でキツかったのが正直な気持ちです。」
2018年シーズンの終わりを迎えたとき、山田選手は自ら引退を決意した。
「2018年シーズンが終わる直前のタイミングで、引退することを決めました。2019年の契約が残っていた状況で急遽引退を発表したので、周囲の人たちには迷惑をかけてしまいましたが、最終的には自分の決断を尊重してくれたので感謝しています。プロとしては当たり前のことですが、日々の練習から自分の全てを懸けてレギュラー争いに挑み、試合の準備を毎週行う作業は、精神的にタフである必要があります。そのような環境で戦い続けてきたことで、当時の自分は精神的に燃え尽きてしまった部分があったのだと思います。」
目の前のことに全力で挑み続けてきたからこそ、Jリーグの舞台にたどり着いた山田選手。そして、J3優勝やJ通算5ゴールなど、チームでも個人でも「結果」を残してきた。しかし、その裏には常人では想像が付かないほどの「努力」が隠されている。
山田選手が28歳の年齢で現役引退を決意したことが、その事実を物語っていると言っても過言ではないだろう。
現役引退を決意した時点では、セカンドキャリアについて何も決めていなかったと語る山田選手。サッカーから離れる決断を下した後、どのようなキャリアを送ってきたのだろうか。
「現役時代から親交のあった会社の方から『うちで一緒に働かないか?』と、声をかけていただきました。引退後からその会社に勤めており、現在も働いています。仕事内容は、障害者の自立支援事業がメインです。その他にも、スポーツ選手のマネージメント事業、イベント事業にも関わっています。1つの会社で様々な取り組みができることに、自分は強く魅力を感じました。」
人との縁をきっかけに、引退後のセカンドキャリアを歩みだした山田選手。現在の仕事に就いてから3年目を迎えている。
その他にも、様々なことへ積極的にチャレンジしている山田選手。
現在は、立命館宇治高校サッカー部の外部コーチとして『指導』に携わっている。「サッカー界に関わり続けたい」と語る山田選手。東南アジアやJリーグで培ってきた経験を部活に励む選手たちに還元するのはもちろんのこと、山田選手が今後の目標の1つとしている「チーム運営やマネジメントに携わること」にも通ずる活動だ。
また、『映像制作』にもチャレンジしている。コロナ禍により、様々な活動が休止に追い込まれた状況において、自らのスキルを上げることの重要性に気づいた山田選手。SNSで偶然見かけた「かっこいい動画」に衝撃を受けて、自らも動画を編集してみると「面白い」と感じて、本格的に映像制作へ取り組み始めた。自らのYoutubeチャンネルを開設したり、映像作成の仕事依頼を受けたりと、活動の幅はすでに広まり始めている。
そして、2021年。
山田選手にとって「新たな挑戦」が始まった。
2020年12月5日、ブラウブリッツ秋田のJ3優勝・J2昇格をサポーターやOB選手と共に祝う目的で、「TDK Presents ブラウブリッツ秋田 レジェンドマッチ」が開催された。その試合に招待された山田選手。「試合をするからには本気でやろう」と決意し、試合開催の1ヶ月前から本気の肉体改造に取り組んだ。
現役時代さながらのトレーニングに励み、レジェンドマッチでは見事なプレーを見せた山田選手。この試合では得点も記録し、改めてサッカーの魅力に取り憑かれたという。そして、現役を引退してから心の奥に閉ざしてきた感情を、ついに開放させる。
「もう一度、ピッチに立ちたい。」
そのタイミングと時を同じくして、サッカー系人気YouTuberのMAKIHIKA(マキヒカ)と共に活動している「梅ちゃん」こと、梅谷賢人さんが「本気で日本一を狙う」ソサイチ(7人制サッカー)のチーム設立を発表。
関西在住の山田選手にとって、チームの活動拠点が一緒であることも重なり、関西ソサイチリーグ「プラムワン」のセレクションに挑んだ。その結果、見事合格を勝ち取り、2021年から本格的に現役復帰を果たす。
「やはり、引退後も心のどこかでサッカーを求めていました。そのような心境の中、梅谷賢人さんの動画を見たときにチャレンジしたい気持ちが湧いてきて、セレクションに参加しました。仕事と両立しながらのプレーなので、プロとして活動していた時とは違う環境ですが、本気でボールを追える日々が帰ってきたことを嬉しく思います。」
約2年の時を経て、”選手”としてピッチの上に戻ってきた山田選手。
ソサイチへの情熱は、山田選手のYoutubeチャンネルに上がっている動画から、ひしひしと伝わってくる。そして、山田選手個人としても「ソサイチ・日本代表」を目標に掲げており、今後の動向に注目が集まる。
「ソサイチ」と聞いて、どのような競技か分からない人も多いと話す山田選手。しかし、その現状を打破したいとも語る。
「サッカーやフットサルとは違い、競技人口も知名度も少ないのがソサイチの現状です。だからこそ、自分は逆にチャンスだと捉えています。本気で日本一、日本代表を目指していますし、そのことがソサイチの発展にもつながると考えています。また、サッカーと同じ『Football』であることに変わりありません。プレー人数やコートの広さの違いはありますが、足でボールを扱い、相手より多くの得点を奪ったチームが勝利する競技です。まだまだ発展途上ではありますが、自分の取り組みによってソサイチの価値を高められる可能性もあると思うので、その点も含めて魅力があるスポーツだと考えています。」
山田選手が加入したプラムワンは、現在関西2部リーグに所属。目標である「日本一」を達成するには、関西1部リーグへの昇格後、同リーグでの上位進出を経て、ようやく全国大会の出場権を得る。要するに、最短でも目標達成まで2年の期間が必要だ。
その事実をふまえて、ソサイチでの日本一・日本代表は「決して簡単なことではない」と気を引き締める山田選手。しかし、このチャレンジ自体に大きな価値があると筆者は感じる。
山田選手のような元Jリーガーの選手が参戦することにより、ソサイチ界全体が盛り上がる可能性は大いに考えられる。また、山田選手が「日本一」や「日本代表」の目標を達成できれば、さらに注目度が増していくはずだ。今後、山田選手は日本ソサイチ界のアイコン的な存在として活躍する可能性も秘めており、サッカーとソサイチをつなぐ役目を果たすこともできるだろう。
山田選手がソサイチで活躍することは、ピッチ内外ともに大きな影響を与える可能性を持っている。
東南アジアでのプロ生活、Jリーグへの移籍、そして現役引退…。多くの困難を乗り越え、いつも本気で戦い続けてきた山田選手。社会人となった現在も、様々なチャレンジを続けている。
そして、今年からは「ソサイチ」を通じて現役復帰を果たし、「社会人」と「フットボーラー」として二足の草鞋を履く生活を送っている。唯一無二の人生を歩み続ける山田選手は、今後のビジョンをどのように描いているのだろうか。
「これからの人生の目標を明確には定めていません。まずは、目の前にあることに対して本気で取り組みたいです。今の自分にとっては、仕事やソサイチ、映像制作や指導などで、それらを本気でやるからこそ、結果的に色々なことがこれから結びついてくると考えています。将来的には、サッカークラブの運営やマネージメントに興味があったり、サッカーコートを街の中心に備えた『街作り・村作り』をすることも、実現させたいことの1つです。これらを実行するためにも、今後もサッカーと関わりながら、様々なものをリンクさせていきたいです。だからこそ、今は目の前にあることに全力を注ぎます。」
目の前の課題に「全力」で、やるべきことを「積み重ねる」。
一見簡単そうに思えても、それを継続することは決して容易ではない。しかし、山田選手はそれを実行し続けてきた。その証拠が、プロサッカー選手として活躍してきた山田選手の「過去」であり、様々なことに挑戦し続けている山田選手の「今」だ。
今年から挑戦しているソサイチでも、「日本一・日本代表」という大きな目標に向けて、やるべきことを全力で積み重ねていく。そして、目標を達成したときに「フットボーラー」としても「人間」としても、さらに進化した山田選手の姿が待っている。
【ソサイチ日本一・日本代表を目指す男】 山田樹選手の活躍に、今後も目が離せない。
■プロフィール
山田 樹(ヤマダ イツキ)
1990年10月5日生まれ 京都府出身
ポジション:DF・MF
■ユース経歴
京都サンガF.C. U-15
京都サンガF.C. U-18
立命館大学
■プロ経歴
2013年–2015年 アルビレックス新潟シンガポール(シンガポール)
2016年 ラオ・トヨタFC(ラオス)
2017年 カスタムズ・ユナイテッド(タイ)
2017年–2018年 ブラウブリッツ秋田(日本)
■ソサイチ経歴
2021年 プラムワン(関西2部)