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【アフリカへ挑戦】櫛田一斗 「さすらいのフットボーラーが挑む大勝負」

選手物語
2021年6月1日

「アフリカに行って、現地の景色を自分の目で確かめたいです。」

 

2020年4月、タイリーグが発表した「アジア人・歴代ベスト11」。元日本代表の岩政大樹選手や、元韓国代表のキム・ドンジン選手らと共に、ボランチのポジションで選出された【櫛田一斗(くしだ かずと)】選手は、2021年6月を目途に「アフリカ」へ挑戦することを公言した。

 

東南アジアのタイをはじめ、オーストラリアや日本でもプレーした櫛田選手は、現役生活最後の大勝負に挑む。その挑戦を決心するまでに歩んできたサッカー人生と、今後の展望について話を聞くと、「積極果敢な姿勢」「今を大切に生きること」というキーワードが浮かんできた。

 

新型コロナウイルス感染拡大の影響により混乱が収まらない現代において、櫛田選手の生き様は多くの人たちを勇気づけるに違いない。

引用:チョンブリFC 公式Facebookページ

 

 

プロに到達できなかった過去

 

京都府で生まれ育った櫛田選手は、幼少期に開幕したJリーグに憧れを抱き、プロサッカー選手になることを夢見た。地元の京都暁FC少年団でサッカーを始め、中学時代には京都紫光SCジュニアユースでプレー。京都府立桂高校へ入学後も、サッカーと真摯に向き合う日々を送る。

 

高校時代には京都府の国体メンバーに選出されたことがきっかけで、関西学生リーグの強豪である京都産業大学から声が掛かり、同大学への進学を決めた。「プロサッカー選手」という目標に向かってプレーし続けた櫛田選手は、大学4年時にJクラブ3チームの練習に参加する。しかし、どのチームからも入団オファーは届かず、プロサッカー選手の夢は実現できなかった。

 

「Jクラブの練習に参加して、自分自身の力不足を痛感しました。ですが、大学卒業後もサッカーを続けたいと考えていたので、一般企業への就職活動は行わずに、サッカーで生きる道を模索しました。そこで、当時JFLだった佐川印刷SCのセレクションに参加。結果は合格で、大学卒業後はJFLでプレーすることになりました。」

 

佐川印刷SCへ加入後はスタメンの座を掴み、中心選手として活躍。ボランチとしてチームを中盤から支えた櫛田選手は、同チームで2年間プレーした。

 

 

異国で叶えた夢

 

櫛田選手が所属していた佐川印刷SCでは、午前中にチーム練習、午後からは仕事をする日々で、苦しいことも多かったと当時を回想する。しかし、サッカーにおいては自身のプレーに手応えを掴んでおり、「カテゴリーを上げてプロに挑戦したい」という想いが強くなった。

 

そこで、2010年を最後に佐川印刷SCを自らの意思で退団。当時、他チームからのオファーは無かったが、より「プロサッカー選手」に近い環境を求めた。この決断が、櫛田選手のサッカー人生を大きく変えることになる。

 

当コラムでもインタビューを実施した樋口大輝(※)さんと、佐川印刷SCでチームメイトだった櫛田選手。そして、偶然にも樋口さんが同チームを退団してタイリーグに挑戦することを決断した時期と、櫛田選手が新たな挑戦をするタイミングが重なる。

(※樋口大輝さん・インタビュー記事)

 

当時、タイリーグの強豪・チョンブリFCの監督を努めていたビタヤ・ラオハクル氏と連絡を取り合っていた樋口さんから、「チームが中盤の選手も探してるから櫛田も行くか?」と声を掛けられる。そこで、櫛田選手は「行きます」と即答。それまで、旅行も含めて一度も海外へ渡ったことが無かったが、偶然に偶然が重なったチャンスを掴むべく、挑戦する道を選択する。

 

「当時はタイについて何も知らない状況でしたが、チョンブリFCはACL(アジア・チャンピオンズリーグ)にも出場しているチームでした。そこに自分が入団して、ACLで戦う姿を想像すると、挑戦しない理由は無いと思いました。当時の自分にとっては未知の環境でしたが、自らの可能性に懸けてタイに行くことを決めました。」

 

2011年シーズン、現地でのトライアルを経てタイ1部リーグ・チョンブリFCとの契約を勝ち取った櫛田選手。プロサッカー選手としてのキャリアを灼熱のタイでスタートさせた。

引用:チョンブリFC 公式Facebookページ

 

 

しかし、現地に着いた際は文化の違いに驚かされたと、当時の様子を振り返る。

 

「集合時間が守られない、時間通りに練習が始まらない等、時間のルーズな部分に日本人の自分は衝撃を受けました。当時は、まだスマートフォンなども普及しておらず、タイのサッカー界も環境面ではまだまだ発展途上中でした。しかし、現地の選手たちは良いクオリティを持っていて、決して簡単なリーグではないと感じました。」

 

 

タイで積み上げた実績

 

チョンブリFC加入の初年から、同チームの中心として活躍した櫛田選手。2011年シーズンはリーグ戦2位の成績を収め、ACLのプレーオフ出場を果たす。一発勝負の出場権争いでは、惜しくも韓国のチームに敗れてACL本戦出場とはならなかったが、AFCカップ(アジア諸国による国際大会)に出場。

 

様々な経験をする中で、海外リーグで戦うことの「難しさ」と「やりがい」を感じていく。

 

「外国人選手として現地に来ているので、他の選手たちの『違い』を見せなければなりません。さらに『結果』も求められる状況で、サッカー選手として生き残ることの難しさを体感しました。それと同時に、自分の特徴を活かしてプレーし、自分自身の価値を高めていく作業は、なかなか日本では味わえない感覚です。その点においては、大きなやりがいも感じました。」

 

チョンブリFCでは4シーズンプレー。2011年にはタイプレミアリーグ・ベスト11、2012年には年間最優秀MFを受賞。タイリーグを代表する外国人選手としての地位を築いていく。

引用:チョンブリFC 公式Facebookページ

 

 

しかし、2014年に前十字靭帯を断裂。日本に戻り手術を受けて、長期のリハビリに励む。約6ヶ月の時を経て怪我から復帰した櫛田選手は、2015年に同リーグのチャイナート・ホーンビルFCに移籍。順調に復帰を果たしたように思われた矢先、再び前十字靭帯を断裂してしまう。

 

「2度目の靭帯断裂をした直後は、『また長期間リハビリをしなければならないのか…』と、感じました。しかし、移籍先のチャイナートFCは怪我でチームを離れている最中も、給料を支払い続けてくれていました。そのこともあり、『もう一度リハビリをして、チャイナートFCでプレーする』という目標ができました。」

 

2度目の靭帯断裂から約8ヶ月の時を経て、2016年シーズン再びピッチに戻ってきた櫛田選手。残念ながら、同シーズンは当時のタイ国王であったプミポン国王が亡くなられた影響により、リーグ戦は途中で終了となってしまったが、櫛田選手にとっては怪我から復帰を果たしたシーズンとなった。

引用:チャイナート・ホーンビルFC 公式Facebookページ

 

 

オーストラリアへ移籍

 

「タイで長くプレーしたこと、怪我をしたこと、何よりも他の国でプレーしたいと思ったことが理由で、オーストラリアへ挑戦することを決めました。」

 

2017年、新たな居場所を求めてオーストラリアに降り立った櫛田選手。現地でのトライアルに参加し、イラワラプレミアリーグ(オーストラリア・地域リーグ)のダプトFCと契約を結んだ。

 

現在、多くの日本人選手が挑戦しているオーストラリアだが、サッカーだけの給料で生活するのは一部の選手のみで、下部リーグや地域リーグではアルバイトなどを掛け持ちしてプレーする選手も多い。しかし、櫛田選手が受けたオファーの内容は、地域リーグの中では高待遇で、チームからの期待の大きさを表していた。

※引用:本人提供

 

 

タイと大きく環境が異なるオーストラリアでは、サッカー面においても様々な「違い」を感じたと語る。

 

「タイ人選手とオーストラリア人選手は、体格面が大きく違います。その影響から、オーストラリアでは『フィジカル勝負』のサッカーだった印象で、1対1の局面で負ければ周囲から激しく指摘されます。逆に、その部分を上手くいなして自分はプレーしていました。チームメイトも能力の高い選手が多く、自分の特徴が良い具合にチームにハマった感覚でした。」

 

シーズンを通して、チームの中心選手として活躍。

 

翌2018年は、同リーグのウーロンゴン・ユナイテッドでプレーした。前年に所属していたダプトFCが消滅した影響により、同チームから多くの選手やスタッフがウーロンゴン・ユナイテッドに移籍。そのような事情が重なり、櫛田選手も移籍するチャンスを得て契約に至った。

 

オーストラリアでの2年目は、リーグ戦で思うような結果を残すことができない苦しいシーズンだったが、グランドファイナルの大会にて決勝戦に駒を進める。残念ながら、チームは敗れてしまったものの、櫛田選手の活躍は現地で高い評価を得た。

※引用:本人提供

 

この試合を最後に、櫛田選手はオーストラリアを旅立つ決断を下す。

 

 

32歳でJデビュー

 

2019年、「Jリーグ」でプレーすることを目標に、日本へ帰国することを決めた櫛田選手。

 

「タイでプロになったときから、いつか『Jリーグでプレーしたい』という想いがありました。年齢的なことを考えると今がラストチャンスだと思い、日本で挑戦する道を選択しました。」

 

幼い頃からの夢であった”Jリーガー”を実現するために、櫛田選手はクラウドファンディングを利用して、移動や宿泊などの活動費を募る。また、知人の人脈を頼りに、Jクラブ2チームのトライアルに参加が決まった。

 

海外での豊富な経験と野心を武器に、Jクラブへのトライアルに参加した櫛田選手は、ついに念願の目標を達成させる。

 

2018年12月12日、J3のいわてグルージャ盛岡との契約が正式に発表され、『Jリーガー・櫛田一斗』が誕生。2019年3月24日、ホームのいわぎんスタジアムで開催されたJ3リーグ、対ブラウブリッツ秋田戦に70分から途中出場し、Jリーグデビューを飾った。

 

※引用:本人提供

 

「チャンスを与えてくれたグルージャには感謝の気持ちで一杯です。初めてJのピッチに立った瞬間は、今でも忘れられません。ただ、シーズンを通じて試合に出れたのは5試合。日本でプレーすることの難しさも感じました。練習の強度、組織で戦うことなど、今まで自分が海外でプレーしてきた時とは、求められることの”違い”が多いと感じました。」

 

2019年シーズン、チームはJ3最下位という悔しい結果と同時に、櫛田選手はいわてグルージャ盛岡との契約が満了。「自分の立ち位置を客観的に見て、これ以上Jクラブでプレーするのは難しい」と判断し、再び海外でチャレンジする方向に舵を切った。

 

 

チョンブリFC復帰

 

「タイを拠点にして、新たなチームを探そうと考えました。理由は、タイ以外の東南アジアの国に挑戦したいと思ったからです。そこで、以前所属していたチョンブリFCに連絡を取ると、練習参加してもOKということで、同チームでコンディションを調整することにしました。」

 

2020年、以前所属していたチョンブリFCへの練習へ参加することになった櫛田選手。住み慣れたタイに戻り、新たな国への挑戦を目標にトレーニングへ励んだ。

 

しかし、肝心な他国への移籍は上手く進まず、時間だけが過ぎていく日々。そのような状況においても、チャンスに備えて黙々も練習をしていると、「チョンブリFCでもう一度プレーしないか?」という話が持ち上がった。

 

「もう一度、チョンブリFCでプレーしたい。」

 

他国への移籍に関して進展が無い状況もふまえて、タイリーグへの復帰を決意。2020年シーズン、再びチョンブリFCでプレーすることを決めた櫛田選手に対しては、現地サポーター達からも歓迎の声が上がった。

 

※引用:チョンブリFC 公式Facebookページ

 

 

しかし、開幕から数試合を消化した2020年3月、新型コロナウイルスの影響によってリーグ戦は中断。その後、2020年9月にリーグ戦は再開されたが、2020年12月にチョンブリFCとの契約は満了した。

 

元々、他国への挑戦を目標にしていた櫛田選手は、サッカー選手としての最後の旅に出ることを決心する。

 

 

アフリカへの挑戦

 

日本人選手にとってあまり馴染み無い場所である「アフリカ」。未開の地へ挑戦する決意を固めた櫛田選手は、2021年4月にタイから帰国。現在は、渡航に向けて準備をするため、日本に滞在中である。

 

「アフリカにある『ウガンダ』のクラブと連絡を取ることができ、今のところ練習参加に来て良いという話になっています。日本人にとっては馴染みの無い地域ですが、プレーできるチャンスがあるので、是非挑戦したいと思いました。」

 

6月にシーズンが終了するウガンダリーグ。櫛田選手は、シーズン終了後の2021年6月中旬を目途に渡航し、契約を目指して現地クラブの練習に参加する予定だ。また、ウガンダのみならず、ケニア、ルワンダ、エジプトなど、他のアフリカ諸国へ挑戦することも視野に入れている。

 

しかし、アフリカへの挑戦には困難も多く存在する。グローバル化した現代のサッカー界において、多くの日本人選手が海を渡り、アジアやヨーロッパをはじめ、南米や北米、オセアニアなど、選手たちがプレーするリーグの国は多様になった。しかし、アフリカ大陸へ渡った日本人選手はまだ少ない。もちろん、物理的な距離の問題も考えられるが、それ以上に立ちはだかる課題は「環境面」である。

 

「給与や待遇など、環境面においては厳しい場所で、その影響もあって日本人選手はまだまだ少ない状況だと聞いています。ですが、自分にとって今回の挑戦はお金が優先事項ではなく、『新しい世界を見たい』という”経験”を求めています。さらに、セカンドキャリアにもつなげるチャレンジにしたいです。自分がアフリカでプレーすることにより、より多くの可能性を広げることができるので、挑戦する意義があるのではないかと考えています。」

 

櫛田選手が培ってきたバイタリティを発揮し、日本人選手の価値をアフリカでも高めることができれば、サッカー界をはじめ、様々な分野で日本とアフリカの架け橋になることができる可能性を秘めている。

 

コロナ禍の影響により様々な分野で苦しい状況が続くなか、櫛田選手が見せる「積極果敢な姿勢」は、現代を生きる上で大切な要素だと感じさせられる。

 

※引用:チョンブリFC 公式Facebookページ

 

 

今後の人生

 

2022年までは現役でプレーしたいと語る櫛田選手。引退後は、「世界一周」をするプランがあるという。さらに、「農業」の世界で勝負することも、今後の人生のプランとして描いている。

 

「2022年まで現役でプレーし、その後は世界一周、そして農業の仕事をしたいと考えています。自分の性格を自己分析すると、人に指導することは苦手なので、サッカーの指導者や監督は向いてないと思っています(笑)。ただ、我慢強い性格なので、農業には向いていると思います。日本なのか、それとも海外なのか、どこで農業をするのかは決めていないので、今回のチャレンジでアフリカ現地の様子を自分の目で確かめたいです。サッカーはもちろんのこと、様々な世界を見てきたいと思います。」

 

現役生活最後になるかもしれない、アフリカへの挑戦。それは同時に、新たな人生の始まりも意味している。

 

未来のことは誰にも分からない。現在描いているプランが変わる可能性も考えられる。しかし、櫛田選手は「今を全力で生きること」で人生を楽しんでいる。だからこそ、色々な世界を自分の目で確かめて、次へ進んでいく道を選択したいと語る。

 

さすらいのフットボーラー、櫛田一斗選手の活躍に目が離せない。

 

※引用:本人提供

 

 

スポンサー募集

 

櫛田一斗選手の「アフリカ・挑戦」にあたり、課題の1つに挙げていることが「待遇面」です。

 

前述した通り、アフリカ諸国のリーグにおいて、金銭的に余裕のあるクラブはまだまだ少ない状況です。そして、今回の挑戦にあたり、渡航費や滞在費などの金銭的な自己負担も多くなるのが現実です。

 

そこで、今回のチャレンジを後押しする「スポンサー」を募りたいと考えています。企業、個人問わず、櫛田選手の挑戦に賛同された方は、下記のリンク(櫛田選手の各種SNS)よりご連絡をお願いいたします。

(櫛田選手ご本人への連絡となります)

 

また、詳細については櫛田選手ご本人より発表する予定です。是非、SNSのフォローもよろしくお願いいたします。

 

●櫛田一斗選手・SNS

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・Instagram

・ブログ

 

 

■プロフィール

櫛田 一斗(クシダ カズト)
1987年1月20日生まれ 京都府出身
ポジション:MF(ボランチ)

 

■ユース経歴

京都暁FC少年団
京都紫光SCジュニアユース
桂高校
京都産業大学

 

■社会人経歴

2009-2010 佐川印刷SC(JFL)

 

■プロ経歴

2011-2014 チョンブリFC(タイ)
2015-2016 チャイナート・ホーンビルFC(タイ)
2017 ダプトFC(オーストラリア)
2018 ウロンゴン・ユナイテッド(オーストラリア)
2019 いわてグルージャ盛岡(日本)
2020 チョンブリFC(タイ)

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