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「様々な葛藤があったけど、もう一度サッカーをしたかった。」
2021年現在、41歳を迎えた【本間和生】選手は、同年7月にタイリーグ3部・サムットプラカンFCとの契約を発表。2014年から2020年まで在籍したラオスリーグ1部・ラオトヨタFC(現:チャンタブリーFC )では、通算156ゴールを奪い、5度の得点王に輝く。
日本人離れした得点感覚を持つストライカーにつけられた異名は、
「ラオスのキング・カズ」
セルビアやハンガリーなど欧州でも12年間プレーし、プロサッカー選手としてのキャリアを長年重ねてきた本間選手だが、2021年は悩み続けていた。
様々な苦悩や心の葛藤を乗り越えて、新たなる挑戦を決意した本間選手。その真実は一体何だったのか。また、点取り屋としての才能をどのように開花させたのか。
本間選手のサッカー人生を振り返ると、至って「シンプル」な答えが見えてくる。
神奈川県出身の本間選手は、幼少時代を横浜で過ごした後、小学5年生の時に埼玉県へ移住。その後、サッカー強豪校の大宮東高校に入学するも、入部当初は周囲のレベルの高さに驚いたという。
最終学年となった高校3年生時に、ようやくレギュラーの座を掴むことができたが、チームは全国大会の舞台に辿り着くことができずに高校生活の終わりを迎えた。
「自分は決して、エリート街道を歩んできた選手ではありません。現在と同様、底辺からコツコツと積み重ねてきた”雑草”のような選手だと思っています。」
高校卒業後は大学進学を予定していた本間選手だが、様々な理由からその話がなくなってしまい、浪人生活を送ることになる。
高校卒業後は、アルバイトに励む生活を送っていた本間選手。
社会人クラブの練習に時々参加したり、公園でボールを蹴ることはあったが、「1年以上はアルバイトとサッカーゲームに明け暮れていた」と、本間選手は当時の様子を笑いながら振り返る。
その姿を見ていた高校時代の先輩が、本間選手に声を掛けてくれたことにより、越谷FC(埼玉県リーグ)へ加入。同チームで1年間プレーした後、リエゾン草津(現:ザスパ草津)へ移籍。
「高校時代に自分と2トップを組んでいた伊藤昭朗(現:SHIBUYA CITY FC 監督)が、『和生、このままくすぶっていてもしょうがないから、どこかテストを受けてみたら?』と、声を掛けてくれました。そのような経緯で話を持ってきてくれたのが、リエゾン草津の入団テストだったのです。そのテストを受けた結果、合格して草津に行くことが決まりました。」
草津での新生活をスタートさせるが、当時のリエゾン草津はプロクラブ化されておらず、チームが提携していた草津温泉などで勤務しながらプレーする日々。同チームに在籍していた頃は、サッカー以外での苦労も多かった。
その反面、モンテネグロ人の監督を招聘して、日々のトレーニングと毎週末に試合を実施しており、プロサッカー生活を疑似体験できる環境でもあった。
リエゾン草津で2年プレーした本間選手は、「サッカーで生活する環境に身を置きたい」と考えるようになり、新たな道へ進むことを決意する。
2002年、知人の繋がりを通じてセルビア(当時はセルビア・モンテネグロ)へ向かい、現地クラブのトライアルに挑戦することを決断した本間選手。
現在では、多くの日本人選手が欧州でプレーするようになったが、当時は中田英寿選手や小野伸二選手など、日本代表で活躍していた一部の選手だけがプレーする「特別な場所」だった。
さらに、本間選手が向かった先は東欧の田舎街であり、差別や偏見的な目で見られることも日常茶飯事。現代のようにインターネットはまだ普及しておらず、ピッチ内外のことを含めて、非常に厳しい環境であったことは容易に想像がつく。
しかし、本間選手は現地クラブで約1ヶ月間の練習参加を経て、当時セルビアリーグ2部に所属していたFKマチュヴァ・シャバツとのプロ契約を掴んだ。
「様々なことにカルチャーショックを受けました。アジアとは全く違う文化で、人種も言葉も違い、サッカーでも感覚的なことが全く異なる環境でした。最初はホームシックにもなり、精神的にも難しかったです。ただ、試合ではゴールを奪い続けることができたので、契約につながったと思います。」
チームに加入後「ゴール」という結果を残して、自分の存在を周囲に認めさせた。そして、加入2年目のシーズン、本間選手は大きなインパクトと結果をチームにもたらす。
2003年、セルビア・モンテネグロの情勢や同国サッカー協会の意向により、大規模なリーグ改革が実施された。その影響から、「半数のチームが3部に降格」という、非常に厳しい条件の中で開催された同国の2部リーグ。
翌シーズンの残留を勝ち取るために、各クラブの生死を懸けて戦ったプレーオフでは、本間選手の大活躍によってFKマチュヴァ・シャバツが2部残留を決める。
ゴールを量産した本間選手の姿は、サポーターたちの記憶にしっかりと焼き付いており、「昔うちのクラブに『ホンマ』という日本人選手がいたんだ」と、未だに地元サポーターは本間選手の名前を口にする。
セルビアで活躍を見せていた本間選手のもとに、隣国・ハンガリーのクラブからオファーが届く。
2004-2005年シーズン後期から、ハンガリー2部のティサ・ボラン・セゲドに移籍。セルビア時代の監督が同チームに就任していたこともあり、移籍直後から中心選手としてプレー。ハンガリーでもゴールを量産する活躍を見せた。
「当時のセルビアに比べると、ハンガリーの町並みは華やかだと思いました。それは、セルビアが近年まで紛争などの問題を抱えていたことが影響しているでしょう。ただ、ハンガリーでは悲観的な思考の人が多い印象を受けました。逆に言うと、慎重派の人が多いということです。外国人である自分は、その環境に適応していくことが大切だと考えて、サッカーや日常生活を送っていました。」
新天地でも、現地の環境に適応することを考えながら、プレーし続けた本間選手。毎年得点ランキングに名を連ねて、同国1部・2部リーグのクラブを渡り歩いた結果、9年半という長い時間をハンガリーで過ごした。
結果に対して非常に厳しい環境であるにも関わらず、異国の地でゴールを奪い続けられる理由の1つは、「適応力」にあるのかもしれない。
ハンガリーで長年プレーしていた本間選手だが、2013年に同国サッカー協会が自国の若手選手育成を目的としたルール改正を実施したことにより、多大な影響を受けてしまう。
その改革内容は、『EU圏外の外国人選手を所有するクラブに対して、協会からクラブに渡される分配金の比率を下げる』という、新ルールだった。その結果、「EU圏外選手」に該当する本間選手にとって、ハンガリーでプレーすることが非常に厳しい状況に陥ってしまう。
このような経緯から、他国への移籍を模索し始めた本間選手。
インド、ドイツ、タイ、ミャンマー…。プロサッカー選手として活躍できる場所を追い求め、世界中のクラブのトライアルに参加するも、残念ながら契約にまで至らない。そうしているうちに、前所属クラブであるハンガリーのヴェスプレームFCを退団してから、半年の月日が経過していた。
「様々な国でテストを受けましたが、なかなかプレーできる場所が見つかりませんでした。当時は精神的にきつい時期ではありましたが、今となっては良い経験ができたと思っています。それに、海外でプレーしている他の日本人選手たちも、同じような経験をしているのは知っていたので、自分だけが特別ではないと思えたことは大きかったです。そのような状況の中、2014年の年明けに新たなチャンスを得ました。」
アジアの国々を中心にエージェント業を手掛けている真野浩一氏(GOAL Sports Agency 代表)を通じて、東南アジアに位置する「ラオス」に向かった本間選手。
現地クラブでの練習参加を経て、2014年にラオスリーグ1部・ラオトヨタFC(現チャンタブリーFC)との契約を果たす。
「当時の自分は、ラオスがどこにあるのか知りませんでした(笑)。それぐらい知名度が低い国で、以前は半分鎖国のような状況だったと聞いています。2014年当時のラオスは、中国資本が一気に入り始めた時期だったのですが、昔ながらの古き良き場所が多く残っており、その環境に触れられたことがとても良かったです。いまでこそ、舗装された道路は多くなりましたが、当時は主要道路でも舗装されていない赤土の場所が多く、砂埃の舞う光景は今でも記憶に残っています。」
長年プレーしてきた欧州とは、大きく異なる環境での挑戦を決意した本間選手。
移籍当初は、「苦労したことも多かった」と、当時のことを回想する。
「欧州とラオスで大きく違いを感じたことは『人間性』です。欧州では、良くも悪くも選手同士がドライな関係で、練習中から意見をぶつけ合うことが普通です。自己主張をするのが当たり前の環境でしたが、ラオスではその部分が大きく違いました。現地で活躍するためには、味方選手に対する声の掛け方や、接し方などを大きく変える必要性を強く感じました。」
ラオスの人たちの性格や人間性に合わせつつ、自身のプレーをアジャストさせたと語る本間選手。その行動が、徐々に実を結んでいく。
自身のプレーを、客観的に分析する本間選手。
「人によっては、ストライカーとしてのエゴを貫き通すタイプの選手もいると思いますが、自分の場合は周りと上手く調和しながらプレーするタイプのFWだと思っています。決して、我を押し通せる強靭なメンタルがあるわけでもないし、スピードや身長などのフィジカル能力に恵まれているわけではありません。だからこそ、チームメイトの癖や特徴などを常に分析しつつ、チームプレーを大切にしながら自分の仕事に集中すること(=ゴールを奪うこと)を、いつも意識しています。」
東欧で培った「経験」と、新たな環境でも臨機応変に適応できる「思考力」を持ち合わせていた本間選手。そして、「点取り屋」としての才能が、ラオスの地で大きく花開く。
ラオトヨタFCに加入した2014年シーズンを皮切りに、2015、2017、2018、2019年と、5度の得点王を獲得。また、チームは2015、2017、2018、2019、2020年と、5度の優勝を飾った。
さらに、AFCカップ(アジア諸国による国際大会)や、メコンクラブチャンピオンシップ(東南アジア・メコン地域の各国チャンピオンクラブによる国際大会)など、国際大会の舞台も経験。
キャプテンマークを巻いて活躍した試合も数多く、名実ともにラオスリーグを代表する選手となった。
2020年10月末、ラオスリーグ・2020シーズンの終了とともに、ラオトヨタFCとの契約が満了した本間選手。フリーになった時期から、様々な「心の葛藤」が生まれたという。
「自分の心の中で、『今の俺は”引退”に片足を踏み入れているな』と感じていました。プロサッカー選手として、毎週の試合のために人生のすべてを注ぐ”気力”があるのか確信が持てず、『また1年、本当に戦えるのか?』と、自問自答する日々が数ヶ月続きました。」
2020年シーズン終了後から、プロ選手として戦うための”メンタル”に自信が持てず、悩み続けていた本間選手。自身でも「少し心が疲弊していたのかもしれない」と、当時の様子を振り返る。
しかし、時間の経過とともに「サッカーが好き」という気持ちには、変化が無いことに気づくことができた。
「メンタル面で悩んでいる時期も、他の選手たちと合同で練習をしたり、自主トレーニングを行っていました。きっと、心の奥底にある『サッカーが好き』という部分には、変わりなかったのかもしれませんんね。」
精神的な葛藤が続く中、ラオスへの移籍をサポートしていた真野氏から「タイリーグ3部のクラブのトレーニングマッチに連れていきたい」と連絡を受ける。
その話を受けた当初は「そこまで乗り気ではなかった」というのが、本間選手の正直な気持ちだった。しかし、トレーニングマッチに参加することを決断し、スタジアムへ足を運ぶ。
その試合を終えて自宅に戻ると、突然スマートフォンが通知を知らせる。
本間選手がトレーニングマッチに参加したクラブは、タイリーグ3部のサムットプラカンFC。タイの首都であるバンコクに隣接するサムットプラカン県を本拠地に構えるチームで、同クラブには、2021年5月から日本人監督の小野啓希氏が就任した。
試合当日の夜、小野氏から「うちのクラブで一緒にやりませんか」と、本間選手へ連絡が届いた。また、それと同時にクラブから獲得したい意思や熱量も、ひしひしと感じていた。
「正直なところ、元々はタイでプレーする気がありませんでした。もし現役としてプレーを続けるなら、他の国でやりたいと考えていたからです。しかし、真野さん、小野監督、クラブの人たち…。皆さんの”熱意”が伝わってきたと同時に、チームの練習に参加する中で『なんか良いな、楽しいな、もう一度やってみようかな』という気持ちが蘇ってきて、いつの間にか『タイでプレーしてみたい』と思っている自分が存在しました。」
様々な「縁」や「タイミング」、そして本間選手の「心」が繋がり、2021年7月にサムットプラカンFCとの契約を決意。クラブからも、正式に獲得のアナウンスが発表された。
現在は、2021-2022シーズンの開幕に向けて、トレーニングに励む日々を送る。
「1人の選手として、『目の前にある試合に向かって全力を尽くして戦うこと』が、何よりも大切だと思います。昨シーズン、チームは下位に沈んでいたと聞きましたが、毎試合勝つことを意識していきたいですし、自分のゴールでチームを助けることができれば最高です。そして、自分に直接声を掛けてくれた小野監督の力になりたいという想いも強いです。」
様々な葛藤を乗り越えた本間選手の新たな挑戦が、東南アジアのタイでスタートした。
欧州とアジアでゴールを量産してきた本間選手に、「なぜゴールを奪えるのか?」と、担当直入に質問をぶつけてみた。
「多くの皆さんが想像する”メンタルが強い選手”という定義で考えたとき、自分は全く逆のタイプで、決してメンタルが強くはありません。試合中に落ち込むこともあるし、弱気なことも多々あります。それでも、『歯を食いしばって戦おう』『我慢強くやろう』と自分を奮い立たせることや、忍耐強くやれることは、結果(=ゴール)を残せた1つの要因ではないかと思います。」
「メンタルの強さ」だけではなく、「忍耐強さ」が重要だと話してくれた本間選手。
また、自身のことを「身長が高くない」「足が速くない」「フィジカルが強くない」と自己分析している。言い換えると「武器がない選手」ということだ。
だからこそ、ゴールを奪うためには、常に色々なことを「考えている」と語る。
「例えば、もし自分に強烈なスピードがあれば、その武器に頼ったプレーをしていたかもしれません。だけど、自分の場合は常に考えなければゴールを奪えない環境でプレーしてきたこともあり、『相手DFとの駆け引き』『味方選手の癖や特徴』『動き出しのタイミング』など、様々なことを考えてプレーしています。何か特別なことをしているわけではなく、多くの選手たちと同様に『どうしたらゴールが取れるかな?』と考え続けて、工夫を重ねているだけです。」
ゴールを奪うために必要なことは、「考える」こと。
至ってシンプルな答えだが、それを実行し続ける作業は、並大抵の努力ではたどり着かない。FWとして得点を奪うため(=試合に勝つため)に、本間選手は結果(=ゴール)を残すことを、常に考え抜いてきた。
その思考力と、様々な経験の積み重ねが、「ストライカー・本間和生」を形成している。そして、どんな環境にも飛び込んでいける適応力、世界中の人たちと繋がった縁、それを引き寄せる心とタイミングが、本間選手の活躍を支えている。
生粋のストライカー、本間和生選手の新たな挑戦に目が離せない。
■プロフィール
本間 和生(ホンマ カズオ)
1980年3月17日生まれ 神奈川出身
ポジション:FW
■ユース経歴
横浜西YMCA
滑川少年団
滑川中学校
大宮東高校
■社会人経歴
1999 越谷FC(埼玉県リーグ)
2000-2001 リエゾン草津(群馬県リーグ)
■プロ経歴
2002-2004 FKマチュヴァ・シャバツ(セルビア・モンテネグロ)
2004-2005 ティサ・ボラン・セゲド(ハンガリー)
2005-2007 ロンバルド・パーパTFC(ハンガリー)
2007-2009 ディオーシュジェーリVTK(ハンガリー)
2009-2010 ニーレジハーザ・シュパルタツシュFC(ハンガリー)
2010-2011 BFCシオーフォク(ハンガリー)
2011 ヴァシャシュSC(ハンガリー)
2011-2012 フェレンツヴァーロシュTC(ハンガリー)
2012-2013 ヴェスプレームFC(ハンガリー)
2014-2020 ラオ・トヨタFC(ラオス)
2021 サムットプラーカーンFC(タイ)