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【アルゼンチン育ちの点取り屋】なぜ加藤友介はアジアで活躍出来るのか

選手物語
2020年4月29日

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14歳で訪れたアルゼンチン。

 

かつてマラドーナも在籍した名門、ボカ・ジュニアーズのホームスタジアム「ラ・ボンボネーラ」を訪れ、本場のサッカーに衝撃を受けた。世界一と称されるスタジアムの雰囲気やサポーターの熱気。そして、その中でプレーする世界トップクラスの選手達。

 

「こんな世界があるんや。自分もここでサッカーがしたい!」

 

短期留学で訪れたアルゼンチンでの光景が、一人の少年の夢となり、目標と変わり、そして現実へと近づいていく…

 

 

加藤友介選手。

 

現在、バングラデシュリーグ1部・シェイクジャマルに所属するFW。アルゼンチンで夢を見た少年は、現在バングラデシュでプレーしている。そんな加藤選手の波乱万丈なサッカー人生に、今回はスポットライトを当ててみる。

 

 

夢を現実にしたアルゼンチン時代

 

中学生時代、短期留学という形で訪れたアルゼンチン。

そこで見た”本物のサッカー”の衝撃が忘れられず、「今すぐにでもアルゼンチンに行きたい」と周囲の大人に伝えたが、実現はしなかった。

地元大阪の刀根山高校へ進学するが、いつも頭の中にはアルゼンチンでプレーする自分の姿。高校卒業と同時に加藤は、アルバイトで貯めた資金を元に再度アルゼンチンへ向かう。

 

もちろん、アルゼンチンでプロサッカー選手になる夢を叶えるために。

 

到着してすぐにCAウラカンというチームに加入したが、待遇は練習生扱い。ユースでの公式戦に出られない日々が続く。ようやく正式に選手登録することができたのは約10ヵ月後のこと。ただ、この時点ではまだプロ契約を交わした訳ではない。ユースの試合に出場できる権利を得たのみ。そこから更に1年半、ユースでの活動が続く。

この時点で年齢は20歳。アルゼンチンに来てから2年以上の年月が経過していた。そんなとある日の紅白戦、加藤の運命が大きく動く。

 

チーム内で行われた【トップ対ユース】の紅白戦。前半、ユース側でプレーしていた加藤に「後半はトップ側で出場しろ」と指示が出る。その日のプレーが監督の目に留まり、「次からトップの練習に来い」と声が掛かった。

翌週には当時アルゼンチン2部リーグを戦っていたトップチームのベンチに入り、更にその翌週に行われた試合で途中出場を果たす。

たった2週間前までトップ昇格を目指す一人のアマチュア選手に過ぎなかった加藤が、トップ選手の一員としてチームのエンブレムを胸に真剣勝負の舞台に立った。全ての出来事が突然降りかかり、自分の目標を達成したにも関わらず、その余韻に浸る余裕は無かったと語る。

 

「目の前の勝負に、毎日が必死だった。」

 

試合前の撮影。下段左から2番目が加藤選手。(写真:本人提供)

 

トップ昇格を果たしたシーズンにチームは1部昇格を決め、加藤自身も12試合に出場を記録。その活躍が認められ、ついにアルゼンチンでプロ契約を結ぶ。

アルゼンチン1部のチームでプロ契約を結びピッチに立ったのは、ボカ・ジュニアーズに所属していた元日本代表の高原直泰選手(現:沖縄SV所属)以来となる快挙。

「俺達が世界一のサッカー大国だ」という誇りを持つアルゼンチンの人々。この地で日本人として試合に出ることの意味を、加藤自身が誰よりも理解していた。

 

「当時、日本人はサッカーが下手な民族だと思われていた。だからこそ、自分が試合に出て負けた時のリスクを考えた時は相当なものだった。とにかく”結果”を残し続けないと生き残れない場所。それがアルゼンチンという国。」

 

周囲から大きく圧し掛かるプレッシャーと、自分自身の強いサッカーへの思い。この狭間で加藤は、一人のフットボーラーとして成長していく。

その後、1部へ昇格したチームは成績不振で監督が解任。加藤も3部リーグのチームへのレンタル移籍。レンタル先からCAウラカンへ復帰するも給料未払いなどの問題が重なり、5年半を過ごしたアルゼンチンからの帰国を決心した。

 

 

日本からアジアへ

 

帰国後、数チームのJクラブへ練習参加をするも、契約には至らず。それと同時に膝蓋腱炎という怪我を抱えており、思うようにプレーができない期間が続く。

紆余曲折を経て当時JFLのMIOびわこ草津(現:MIOびわこ滋賀)に入団するも、プレシーズンでまたも負傷。当時は仕事を掛け持ちしながらのプレー。怪我の治療もサッカーのプレーも中途半端な状況に、納得できない自分がいた。

 

「国や場所は問わない。サッカーだけで生活をする環境にもう一度身を置きたい。」

 

そう考えていた矢先、代理人を通じてインドリーグの話が突如舞い込んだ。

二つ返事でインドに向かい、トライアルを経てデンポSCと契約。半シーズン契約でリーグ優勝を果たすが、加藤自身はチームと契約延長とはならず。しかし、この直後にタイリーグの名門BECテロ・サーサナFC(現:ポリス・テロFC)が興味を示していると連絡が届き、移籍を果たす。

 

「プロサッカー選手として、生きていきたい。」

 

この思いを胸に、自分を必要としてくれる場所へ向かった。

タイリーグには4年半在籍し、合計6チームでプレー。アジアに足を踏み入れた当初は、アルゼンチンとは違う部分に戸惑う事もあった。

 

「国が違えば評価されるプレーや基準も違う。正直、現地の人達に何をすれば評価されるのか迷った時期もあった。でも、その経験が後の自分にとって大きなプラスになったことは間違いない。」

 

と、インド・タイリーグ時代を回想する。

タイリーグ時代の加藤選手。(写真:Samutsongkhram FC Official Facebookページ)

 

 

アジアを渡り歩くサッカー選手へ

 

2016年、タイ国王が逝去されたことにより、タイ国内では各チームの財政が厳しくなった。その影響は、タイリーグでプレーしていた選手達への契約問題と直結する。加藤自身も新シーズンのチームが決まらない状況が続く中、香港のチームからオファーが届いた。

前述した通り、「国や場所に捉われず、サッカーで生きてく。」と決めていた加藤は、香港の南華足球隊へ移籍。2017年は香港の名門チームで半シーズンをプレーした後、インドネシアのグレシック・ユナイテッドFCへ移籍。ここでも半シーズンをプレーした。2018年はモンゴルのFC墨田ウランバートルにて、トーナメント戦のみプレーする短期契約を結ぶ。

 

上記3カ国(香港・インドネシア・モンゴル)でプレーした際は、タイでの経験が多いに活かされた。

 

「アルゼンチン時代とは違い、アジアでプレーする際に自分は助っ人外国人選手となる。周りの選手のレベルも、アルゼンチンの選手とは異なる中で、求められるのは結果。個人の力で局面を打開する必要も出てくるし、チームや監督の方針に合わせる部分も必要となる。それを実行に移せたのは、タイでプレーしてきた経験が物凄く大きかった。」

 

香港でプレーする加藤選手(写真:香港南華FC Official Facebookページ)

 

 

「直感」を頼りにバングラデシュへ

 

モンゴルでのプレーを終えた後、再度南米でプレーをする可能性もあったが、加藤が向かった先は南アジアのバングラデシュ。国境はインドとミャンマーに接しており、面積は14.7万k㎡と日本の約4割の大きさで、2018年時点の人口は1億6,365万人。近年は経済発展が著しくなってきたが、かつては「アジアの最貧国」とも称された国だ。

 

代理人を通じてバングラデシュの移籍話しを受けると、「おもろそう!」と、直感が働いた。その直感を信じ、2018年9月バングラデシュリーグ1部のムクチョッダ・サンサドKSと契約。

現地に行くと、まだまだサッカーも国自体も発展途上であることは事実だが、大きな可能性を感じたという。

 

「リーグ上位陣の中には、資金力を活かして大きなスタジアムや練習場を新設していたり、約30,000$/月(約320万円)のサラリーで外国人選手と契約しているようなチームもある。その半面、下位のチームは環境面などで厳しい部分があるのも事実。練習環境や住環境は特に厳しい。それでも、外国人選手には約1,000$(約10万円)の給料が出ている。」

 

加藤は2018-2019年シーズンの活躍が認められ、翌シーズンに同リーグのシェイクジャマルへ移籍。前年からの給料が3倍になり、バングラデシュサッカー界の大きな可能性を、身を持って実感した。

 

「現地でプレーしている外国人選手のレベルは、タイなどと比べるとまだ低い。アジア人選手も少ない。その中で活躍すれば一気に待遇が上がる可能性がある。チャンスが転がっている国であることに間違いない。」

 

それを実現した加藤の言葉には説得力がある。

キャプテンマークを巻く加藤選手(Sheikh Jamal Dhanmondi Club Limited Official Facebookページ)

 

 

自分次第で「なんとでもなる」未来

 

残念ながら、コロナウイルスの影響で現在バングラデシュリーグは中断となっているが、今後の目標を伺ってみた。

 

「現在34歳だが、まだまだサッカーを続けたい。自分が求める待遇の条件をクリアできるなら、国や場所にはこだわらない。でも、もし可能性があるならヨーロッパに行ってみたい。周囲は”その年齢でヨーロッパ?”という反応をするかもしれないけど、決めるのは自分の意志。自分が決めた道であれば、なんとでもなると思っている。そして、サッカー以外の経験も含めて、”面白そう”という部分を求めていきたい。まさに、バングラデシュにはサッカー以外の部分での面白さも求めて来たから。」

 

日本を含めて世界8カ国でプレーしてきた加藤友介というフットボーラーは、今後も自らの足で独自の道を切り開いていくだろう。

その目の輝きは、アルゼンチンのサッカーに魅了された14歳の時と何1つ変わらない。

いや、サッカー以外のことにも興味を持ち、「まだまだ人間として成長していきたい」と語った加藤は、14歳の時より輝きが増しているのかもしれない。

 

過去にプレーしてきた国のスタジアムを、「ラ・ボンボネーラ」のような情熱に溢れる場所に変えてきた男の挑戦は、これからも続く。

 

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