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日本のJリーグを経由せずに、世界各国でプロサッカー選手となる日本人が増えた昨今のサッカー界。日本人選手達がプレーする国や地域は多種多様で、日本では名前が広く知れ渡っていなくとも、その国や地域では大きな評価を得ている選手も複数存在する。
その中でも、アジア諸国で活躍する選手は多数存在。東南アジアNo.1の呼び声が高いタイ、その周辺に位置するカンボジアやラオスでは、数年前から多くの日本人選手が活躍し、日本人選手の価値を高めてきた。
しかし、西アジア・中東地域にまで足を伸ばすと、日本人にとってはまだまだ未開の地である。大きな評価を得て現地で活躍してきた選手はごく僅か。そんな中、とある一人の選手が日本人初のイランリーガーとしてプレーした。
【杉田 祐希也】選手。
現地で高く評価されている杉田選手は、なぜイランで認められているのか。今回は、イランへたどり着くまでに様々な経験を経てきた杉田選手のサッカー人生にスポットライトを当てる。
埼玉県出身の杉田選手。小学生時代からプロサッカー選手を目指していたことから、Jリーグの下部組織があるチームのセレクションを受ける。その結果、小学4年生から柏レイソルU-12でプレー。中学・高校生時代も、同チームのユースカテゴリーでプレーを続けた。
当時のポジションは典型的なトップ下の選手だったが、高校2年生で怪我をした影響もあり、高校3年生で試合に絡む回数が減ってしまった。そこから出場機会を掴むために、「個人で局面を打開できる選手になりたい。ドリブラーになろう。」と、工夫を重ねてドリブルの練習に励んだ。
しかし、高校卒業時に柏レイソルのトップチームへ昇格することが叶わず、宮城県の仙台大学へ進学する。入学後は、高校時代に磨きをかけたドリブルを武器にプレーする、サイドアタッカーへと進化を果たした。
このとき身につけた「臨機応変さ」が、のちに世界を相手に戦う杉田選手の大きな武器となる。
仙台大学入学後に迎えた1年目の夏、杉田選手は大きな決断を下す。
「”スペインへ短期留学したい”と大学側に伝えて、スペインに渡航しました。もともと、高校生時代から海外に行きたい気持ちがあったのですが、タイミングが合わずに大学生になりました。しかし、その気持ちをおさえることができず、大学へ入学したばかりでしたがスペインに旅立つことを決めました。」
当時19歳だった杉田選手はスペインへ向かい、現地チームのトライアルに参加した。その結果、当時スペイン4部リーグに属していたホベ・エスパニョールとの契約を果たす。しかし、ビザや書類の関係から試合に出場することができず、下部リーグでの出場を余儀なくされる。
そのままスペインでの初シーズンが終了してしまったのだが、ここで杉田選手の元にビックチャンスが訪れる。
当時スペイン2部リーグに所属していたエルクレスCFへの練習参加が認められた。そのチャンスをものにした杉田選手は、2013-2014シーズンに同チームと契約し、スペイン2部リーグでプレーした。
「当時はまだ年齢が若かったこともありますが、スペイン2部リーグのレベルは高かったです。いま振り返ると、自分のプレーを何も出せていなかった感覚です。ただ、シーズンを通じて16試合に出場し、2ゴール決めることができました。とても良い経験ではありましたが、チームは翌年に降格してしまい、エルクレスCFでの2シーズン目はスペイン3部でプレーすることとなりました。」
スペインのエルクレスCFで2シーズンプレーしたが、給料に関する契約が守られていないこと等の問題が重なり、杉田選手は同チームの退団を希望。話し合いでは折り合いがつかず、チームとの裁判を起こす出来事となってしまった。ただ、一方ではスペインの強豪ビジャレアルのBチームからアプローチを受けていた。
しかし、裁判での勝利を収めたタイミング(=移籍が可能になったタイミング)で、ビジャレアルの話しが流れてしまう。他のチームからのオファーを待ったが、なかなか納得できるオファーが届かない時間が続く中、突然届いたタイリーグからのオファー。
「東南アジアの中でもトップに位置するタイリーグ。その中でも1部リーグで常に優勝を争うチームからの話しが届きました。直接契約できる訳ではなくトライアルからでしたが、チャンスがあるならチャレンジしようと決めてタイに向かいました。しかし、現地に到着すると話しを受けていたチームには結局行くことができなくて…。そこで、パタヤ・ユナイテッドの練習に参加することとなりました。その結果、同チームと契約したのが2016年シーズンの話しです。」
このような経緯を経て、タイリーグ1部のパタヤ・ユナイテッドへ移籍を果たした杉田選手。しかし、初めてプレーしたアジアの地では「かなり苦戦した」と、本人は語る。
「正直、もう少し活躍できると最初は思っていましたが、結果を残すことができませんでした。タイではゴールやアシストと言った”数字”の部分に評価基準の比重が大きいと感じていて、前線のポジションである自分は、その数字の部分を結果で示すことができませんでした。自分自身の準備が足りていなかったのだと思います。いくらドリブルで相手を抜いたとしても、ゴールを決めないと評価されない。いま思い返すと、自身の成長という部分では、とても良い勉強になりました。」
前期リーグをパタヤ・ユナイテッドでプレーした杉田選手は、後期からレンタル移籍で同リーグ2部のPTTラヨーンFCへ加入した。
「タイでは、外国人選手としてプレーする上で求められることが、当時の自分は果たすことができていませんでした。ラヨーンでプレーした際もそれは一緒で、タイでの時間は自分にとって苦しい期間ではありました。ただ、先にも言った通り、外国人選手として”結果”を残すことの重要性や責任を学べたことに関しては、物凄く良い経験ができたと思っています。」
タイでのシーズン終了後、新たな活躍の場を求めてメキシコへ向かう。現地では約3ヶ月間滞在したが、結局チームとの契約にこぎつけることができなかった。そのタイミングで、エージェントを通じてスウェーデン2部のチームへトライアルに参加できるオファーが杉田選手の元へ届く。
「もう一度ヨーロッパでプレーしたい」との思いから、同チームのトライアルを経て、2017年シーズンにスウェーデン2部のダルクルドFFと契約を果たした。
「スウェーデンのサッカーに対する最初のイメージは、勝手ながらみんな体が大きくてロングボール主体のサッカーをするのかと思っていました。しかし、戦術的に整理されていて、全体的なサッカーのレベルも高いと感じました。足元でしっかりパスを繋ぐチームも多いです。待遇面でも現地ではしっかり生活できるレベルなので、サッカーをプレーするには集中できる環境だと思います。」
再び活躍の場をヨーロッパへ移した杉田選手。スウェーデンでの初年は2部リーグを優勝し、翌年に1部リーグへの昇格を果たした。そして、2018年は同リーグの1部でプレー。スウェーデンでの杉田選手の活躍が他国にも知れ渡り、このシーズン中にビッグオファーが舞い込むこととなる。
2018年シーズン、スウェーデン1部リーグで活躍していた杉田選手。シーズン中に、イラン1部のトラークトゥール・サーズィーFCからオファーを受けた。
「スウェーデン1部でプレーしていた時に、国内外の様々なチームから興味があると言われていた状況でした。その中で、イランから正式にオファーが届きました。正直、待遇も過去の自分の中では一番良い内容です。このようなオファーは二度ともらえないかもしれないし、もう一度他の国でチャレンジしようと思い、イランに移籍することを決めました。」
こうして、日本人初のイランリーガーが誕生した。
日本のJリーグを経由せずに、海外でサッカー選手としての価値を高め、アジアでも日本と匹敵するイランの1部リーグへの加入を果たした杉田選手。
日本ではあまり知られていないイランのサッカー事情についても伺った。
「加入したトラークトゥール・サーズィーFCは、自分が移籍したタイミングと同時に、ヨーロッパでプレーしていたイラン代表の第1、第2、第3キャプテンを獲得しました。オーナーが変わって、チームが力を入れていたタイミングだったんです。チームメートもイラン代表クラスの選手が多く、サッカーのレベルも高いと思いました。試合では、1対1の局面で凄まじい激しさがあり、フィジカルコンディションが整っていなければ戦えないリーグです。自分は、ウイングのポジションで果敢に仕掛けることが主な役割でした。他のチームも、ウイングの選手はがんがん仕掛けていくし、トップ下の選手でも積極的にドリブルで仕掛けていきます。」
また、現地での生活に関する事情も伺った。
「このチームには手厚い待遇で迎え入れてもらえたこともあり、良い住まいを用意して頂いたり、移動するためのドライバーが付いてくれたりしました。チームの本拠地でもあるタブリーズという街では、ファンの方々が物凄く熱狂的です。街を歩けば人だかりができてしまうほど。なので、あまりプライベートが無いような環境ではありました。また、日本食をはじめ、中華料理やアジア料理も全く無い街だったので、サッカー以外では家で過ごすことが多かったです。今まで過ごしてきた場所とは全く異なる環境でした。トルコとの国境近くの都市ですが、治安は良かったです。また、地理的な影響もあるのか、現地の方々はトルコ語も話します。」
このような環境の中、杉田選手は加入1年目のシーズンは3ゴールを記録。また、シーズン序盤はベンチスタートの試合もあったが、途中からはスタメンとして活躍。チームに欠かせない存在へと変貌した。
「契約してチームに加入したタイミングですぐにリーグが開幕だったこともあり、シーズンの序盤はベンチスタートの試合もありました。ただ、途中からはほとんどの試合でスタメンとしてプレーしていました。スタジアムには3万人ぐらいのサポーターが常に入ります。大きな試合だと、7~8万人の観客が入る試合もあります。更に、タイトルが掛かるような試合になると、観客席は10万人規模になります。イラン現地では、サッカーが人気No.1のスポーツです。ただ、宗教の関係から女性はスタジアムに入ることができないので、男性だけで数万人規模の人数を埋め尽くしているスタジアムとなります。そのスタジアムは異様な雰囲気です。」
最新のFIFAランク33位のイラン(2020年4月9日発表)。日本と常にアジア1位を争うリーグでプレーした杉田選手は、同国で大きな評価を得ている。
そんな杉田選手は現在、イランを離れて再びスウェーデンにてプレーしている。
イランでの2シーズン目を迎え、10試合ほどをプレーしたタイミングでスウェーデン1部リーグのIKシリウス・フォトボルへ期限付きでレンタル移籍を果たし、2020年6月現在に至る。
「アメリカとイランの関係が悪化してしまい、イラン情勢が不安定な状況となってしまいました。身の安全やサッカーに集中できる環境などを考えると、今はイランではない場所に籍を置くほうが自分にとってベストだと判断し、チーム側に自分の思いを素直に話したんです。チームは自分のことを評価してくれていて、最初は残ってほしいと言ってくれました。ただ、結果的にはレンタルで半年間は好きなところでプレーした後、またイランへ戻ってこい。という話しなりました。」
2020年6月現在は、スウェーデンにてプレーしている杉田選手。しかし、イランのトラークトゥール・サーズィーFCは杉田選手のことを高く評価している。その証拠として、1シーズン目を終えたタイミングで、5年契約のオファーを受けた。
イランという日本人にとってはあまり馴染みの無い場所だが、高い評価を受ける杉田選手は現地のチームから必要な選手とされいる。それはイランに限らず、現在プレーしているスウェーデンでも同じことが言えるだろう。
なぜ、杉田選手は海外で活躍することができるのか。単刀直入に質問してみた。
「日本人である自分は、現地では外国人選手となります。特にアジアではチームプレーも重要ですが、個人で何ができるかという部分がより重要になると思います。その個人の結果次第で、翌年の自分の待遇が大きく変わりますし。何を意識してプレーするのか、何を大切にプレーするか、その時々で考えるようには意識しています。例えばイランであれば、味方選手のためにスペースを作るような動きが効果的だったとしても、そのような部分はあまり評価されておらず、球際でガッツリ戦いに行ってボールを奪いきる部分や、ゴールを決めるという部分が評価されます。その国やチームで求められていることを、臨機応変に対応することも時には必要だと思います。」
このように語ってくれた杉田選手。
日本でプレーしていた頃から持ち合わせていた「臨機応変さ」で、各国での活躍を実現してきた。その積み重ねの成果が、イランでの評価に繋がっているとインタビューを通じて感じさせられた。
「プロサッカー選手」として生きることを体現している杉田選手に、今後の展望について伺った。
「まずは、サッカーを楽しみたいと思います。イランでの契約は残っていますが、イラン国内の情勢を含めて今後はどうなるか分かりません。だからこそ、どこに行ってもサッカーを楽しみたいという気持ちは大切にしたいです。待遇や条件はプロサッカー選手としてもちろん大切です。それが、自分のサッカー選手としての評価と直結しているので。ただ、イランより面白そうだと思える話があれば、南米や日本なども含めて、色々な国でプレーしてみたいと思っているのが、自分の素直な気持ちです。そう思えるのは、イランでプレーしたという経験が1つ大きい要因だと思います。待遇だけに捉われるのではなく、広い視野でサッカーと関わりたいです。あと10年ぐらいは現役としてプレーし続けたいと思っています。」
現在27歳の杉田祐希也選手。今後の活躍も目が離せない。
■プロフィール
杉田 祐希也(スギタ ユキヤ)
1993年4月22日生まれ 埼玉県出身
ポジション:MF・FW
■ユース経歴
柏レイソルU-12
柏レイソルU-15
柏レイソルU-18
仙台大学
■プロ経歴
2013年 FCホベ・エスパニョール(スペイン)
2013年 – 2015年 エルクレスCF(スペイン)
2016年 パタヤ・ユナイテッドFC(タイ)
2016年 PTTラヨーンFC(タイ)
2017年 – 2018年 ダルクルドFF(スウェーデン)
2018年 – 2019年 トラークトゥール・サーズィーFC(イラン)
2020年 IKシリウス・フォトボル(スウェーデン)