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サッカー界において、東南アジアでトップクラスの歴史と実績を持つ国の1つである「タイ」。北海道コンサドーレ札幌で活躍するチャナティップ選手や、横浜・Fマリノスに所属するティーラトン選手など、現在ではタイ人選手が日本のJリーグでプレーすることが当たり前の光景となった。
その背景には、タイの国内リーグが大きくレベルアップしてきたことが深く関係している。特に2010年代からタイリーグは急発展を成し遂げてきたが、そのタイミングと同時にタイへ活躍の場を移した日本人選手たちが存在したことは、切っても切り離せない関係にある。
2011年、日本のJFLでプレーしていた【樋口大輝】さんは、プロサッカー選手になる夢を追い求めて、当時はまだ未開の地とされていたタイに足を踏み入れた日本人選手の一人である。タイ・プレミアリーグ(1部相当)のチョンブリーFCへの入団を筆頭に、2018年シーズンまでタイ現地で選手として活躍してきた樋口さんは、現在タイリーグ2部のカセサートFCにてアシスタントコーチを務めている。
タイ・サッカー界の発展と共に歩んできた樋口さんのサッカー人生は、プレーヤーとしてだけではなく、指導者としてのキャリアも積み重ねている最中だ。樋口さんがタイにチャレンジした経緯、異国の地で指導者として活動する上での葛藤や喜び、今後の展望など話を伺うと、これからの世界を生き抜くために大切なことが見えてきた。
幼い頃から体を動かすことが好きだった樋口さん。サッカーをはじめ、野球やバスケットなど、あらゆるスポーツを遊びの中で行っていた。しかし、小学校3年生のときに開幕した「Jリーグ」の映像を見たときに、樋口さんの人生は大きく変わる。
「三浦カズ、かっけぇ〜!!」と、テレビ画面の向こう側に映し出されている華やかな世界に興奮し、強い憧れを抱くようになった。このことがきっかけで、地元・熊本県の八代市立麦島小学校のサッカーチームに入団し、本格的にプレーを始める。
その後、プロサッカー選手になることを夢見て中学・高校とサッカーに取り組んだ。しかし、熊本県立鹿本高校卒業時にはJリーグへの道に進むことができず、九州地域のサッカー強豪校である福岡大学に進学を決めた。「大学卒業後にプロ契約を実現する」という目標を胸に、慣れ親しんだ地元を離れる決断を下した。
福岡大学へ入学した1年目からトップチームの試合に出場してきた樋口さんは、大学生活4年間もサッカーと真摯に向き合ってきた。しかし、大学卒業時にJリーグのクラブに入団することは実現できず、JFLの合同セレクションに参加。その結果、当時JFLに所属していたガイナーレ鳥取への入団が決まった。
2007年シーズンから同チームで活躍。入団1年目からサイドバックのポジションでスタメンを勝ち取り、Jリーグ昇格を目指していた当時のチームを牽引。しかし、入団2年目以降は出場機会が減少し、2008年シーズン途中に同リーグの佐川印刷SC(2014年に佐川印刷京都SC、2015年にSP京都FCに改名)に移籍。佐川印刷SCでは、アマチュア選手として午前は練習、午後は仕事を行いながらプレーを続けた。
2010年シーズンまで佐川印刷SCにてプレーを続けた樋口さん。同チームでは約2年半の時を過ごし、充実したサッカー生活を送っていた。
樋口さんがガイナーレ鳥取に入団した2007年当時、アシスタントコーチとして同チームに携わっていたのは、タイ出身のヴィタヤ・ラオハクル氏。同氏は、現役時代にタイ国内のクラブだけではなく、日本のヤンマーディーゼル(現:セレッソ大阪)や松下電器産業サッカー部(現:ガンバ大阪)でもプレー。また、西ドイツのヘルタ・ベルリンなど欧州リーグでもプレーした、タイ・サッカー界のレジェンド的な存在である。
指導者としても国内外で大きな実績を残したヴィタヤ氏は、2007年よりガイナーレ鳥取での指導を開始。そのタイミングと同時期に入団したのが、大卒1年目の樋口さんだった。
【ヴィタヤ氏との出会いが、樋口さんのサッカー人生に大きな変化を与える】
ガイナーレ鳥取在籍中はもちろんのこと、チームを退団後も事あるごとにヴィタヤ氏と連絡を取っていた樋口さん。それまでにも多くの指導者の下でプレーしたきたが、ヴィタヤ氏が教えてくれる「サッカー」は新鮮で、心を打たれたという。
「ヴィタヤさんは自分が初めて出会ったタイプの指導者でした。ガイナーレ鳥取に在籍していたときからプレーに関しての意見を交わすようになり、佐川印刷SCに移籍した後も連絡を取ってアドバイスを求めていました。所属チームに関係なく、深く親交を持ち続けていました。」
ヴィタヤ氏との会話の中で、樋口さんは今でも忘れられないエピソードがあったと語る。
「自分がサイドバックのポジションでボールを保持した状況でプレーするにあたり、相手選手がプレッシャーに来たときにどうすれば良いか?という話がありました。そのときにヴィタヤさんは ”交わせよ” と、アドバイスをくれました。たった一言ですが、当時の自分にとっては物凄く衝撃を受けました。それは、サッカーという枠にとらわれず、人生における全てのことに ”勇気を持て” ”リスクを背負っていけ” という意味だと自分は解釈しました。そのことがきっかけで、サイドバックの自分がボールを保持しているときも、勇気を持って積極的にプレーできるようになり、サッカー選手として成長できた実感がありました。」
佐川印刷SCでレギュラーポジションを掴み、居心地も良かった同チームでの2年半の生活。しかし、樋口さんの頭の中にはヴィタヤ氏の「交わせよ(=勇気を持て)」という言葉が脳裏に焼き付けられていた。そのことが大きく影響し、樋口さんは新たな挑戦をする決意を固める。
佐川印刷SCに所属していた2010年シーズンの終盤、樋口さんは自らチームを退団する旨を伝えた。
「自分にとって佐川印刷SCは、とても居心地の良い場所でした。チーム内ではレギュラーとして試合に絡み、チームメートたちにも恵まれ、安定して給料も貰える環境。しかし、小さい頃の自分が本当に望んでいたものは、サッカーでご飯を食べていくこと(=プロサッカー選手)のはずでした。当時の年齢は25歳でしたが、心の奥に秘めていた本当の自分の思いに気付き、再度プロサッカー選手を目指すことを決意しました。」
移籍先の宛もなく退団の意向を伝えた樋口さん。しかし、樋口さんの情熱はすでに周囲の人間に届いていた。
「チームを辞める意向を伝えた直後の試合に、ガイナーレ鳥取時代から繋がっていた知人が試合会場に来ていました。その人はヴィタヤさんとも繋がっている方で、その知人を通じて ”ヴィタヤさんが樋口と話をしたがっている” という話を聞きました。」
すぐにヴィタヤ氏へ連絡を取った樋口さん。詳細は、翌年からタイリーグのチョンブリーFCで指揮を取ることになっていたヴィタヤ氏が、左サイドバックのポジションの選手を探しているとのことだった。
樋口さんは、直感的に「ここだ!」と感じたと言う。
「ヴィタヤさんから、”もう一度、一緒に仕事をしたい” と声を掛けていただきました。正直、当時の自分は海外でサッカーをすることなど想像したこともなく、ましてやタイリーグの存在すらはっきり理解していませんでした。しかし、”このタイミングで一歩踏み出せばサッカーで飯が食えるぞ” と思い、自分の直感を信じて、その場でタイに行きたい旨を伝えました。」
2010年12月、タイのチョンブリーFCに合流した樋口さんは、約10日間のトライアル期間を経て、無事に同チームとの契約を果たした。日本ではない異国の地で、念願のプロサッカー選手となった樋口さん。
ヴィタヤ氏との運命的な出会いが、樋口さんのサッカー人生を大きく動かした瞬間だった。
タイリーグ移籍1年目、樋口さんはプロサッカー選手として海外で活躍することの厳しさを痛感することになる。
「チョンブリーFCに移籍した1年目、思うような結果を残すことができませんでした。あまり試合に出場することができず、海外でプレーすることの難しさを感じました。ピッチ内外共に、自分が経験したことのない出来事が多く、様々な場面で想定外のことが起きました。その出来事に対して、当時の自分は上手く向き合うことができず、結果も付いてきませんでした。日本とは言葉も文化も違う環境で、その事実と比例するようにサッカーも日本とは大きく異なります。しかし、自分は外国人選手としてタイのチームに加入しているので、チームや環境がどんな状況であろうとも、結果を残す必要があります。ですが、海外1年目の自分は、現地の環境に適用することが上手くできませんでした。」
当時の苦悩を回想する樋口さん。思うように結果を残すことができず、チョンブリーFCとの契約は1シーズンで満了となった。
しかし、チョンブリーFCのアシスタントコーチが翌年にウオチョン・ユナイテッドFC(2013年以降はソンクラー・ユナイテッドFCに改名)の指揮を取ることになり、樋口さんも2012年シーズンに同チームへ移籍することが決まる。
プロサッカー選手としてタイで生き残るために、樋口さんは1年目の経験を存分に活かした。
「他人を変えるのではなく、まずは自分が変わる。」
それは、自身の成長を意味していた。現地の言葉でチームメイトと密にコミュニケーションを取ることを心がけ、自分のプレーに対してもより責任を持つようにマインドを変えた。決して、技術やフィジカルが急激に変化したわけではないが、「メンタル」の部分において大きく進化した。
1年目には実行できなかった「適応」することを実践し、プロサッカー選手として【Daiki Higuchi】の価値をタイで高めていく。
2014年シーズン開幕前、樋口さんは2年間プレーしたウオチョン・ユナイテッドFCでの契約を終えて、次のチームへの移籍を模索していた。オフシーズン期間のトレーニングを行うために代理人を通じて紹介された、当時タイ・ディビジョン2(3部相当)のタイ・ホンダFCのチーム練習に参加しながらコンディションを整えていた。
当時、タイ・ホンダFCは日本人監督の滝 雅美氏(現:タイ1部、ラヨーンFC監督)の元、3年以内にタイ・プレミアリーグ(1部相当)を目指して活動していたクラブ。
タイの1部リーグでプレーし続けていた樋口さんにとってタイ・ホンダFCでの練習は、あくまでもコンディションを維持するための「トレーニング」が目的であったが、偶然にも同チームはサイドバックのポジションの選手を探していた。更には、監督の滝氏から 「一緒に昇格を目指さないか」と、声を掛けられていた。
タイのトップリーグで3シーズンもの期間プレーし続けてきた樋口さんにとって、3部リーグでプレーすることは、周囲の人間からすると理解し難い選択である。しかし、チームのビジョン、監督である滝氏の熱い思い、何よりも樋口さん自身の「直感」がタイ・ホンダFC入団の決め手となった。
「3部リーグでプレーすることが、自分にとって難しい選択になることは自覚していました。下がるのは簡単ですが、下から上がることはとても厳しいのが、プロサッカーの世界です。ただ、クラブが掲げる目標に向かっていくことに対して、 ”魅力” や ”やり甲斐” を直感的に感じました。その自分の感情に素直に従い、当時3部だったタイ・ホンダFCへ移籍することを決めました。」
2014年、樋口さんはタイ・ホンダFCと契約。同年に地区リーグ優勝を果たし、2部リーグへの昇格プレーオフでも勝利を収めた。更には、2016年シーズンにタイ2部リーグで優勝を果たし、1部リーグ昇格を決める。樋口さんは同チームのキャプテンとして、3部リーグから1部リーグへ昇格するという、チームの壮大な目標を達成する原動力となった。
「クラブの目標を叶えることができて、大きな達成感を味わうことができました。特に、3部から2部に昇格を決めた瞬間は、未だに自分の記憶の中で鮮明に残っています。3部リーグの試合環境、レフリーのジャッジに関する問題など、シーズンを通じて様々な困難が多く、とてもタフなリーグでした。それでもみんなが1つにまとまって、国籍など関係なくチームとして昇格を達成できたからです。シーズンの最終戦、勝たなければならない状況の中、ロスタイムに劇的な逆転弾で昇格を引き寄せた瞬間は、今でも忘れることができません。」
2016年、タイ・ホンダFCとの契約が満了したときに「引退」の2文字が脳裏をよぎる。
「どんなに凄いプロサッカー選手でも、いつかは全員 ”引退” を迎えます。タイ・ホンダFCとの契約が終わったタイミングで、自分は真剣に引退について考えました。しかし、次に自分は何をしたいのか、まだ当時は方向性がはっきり定まっていなかったことも事実です。そのような状況の中、知人を通じてタイの首都であるバンコクに本拠地に構えるチャムチュリ・ユナイテッドからオファーを受けました。同チームはタイ3部のカテゴリーでしたが、引退後の自分の可能性を探る意味も含めて移籍を決めました。ちょうど子供が生まれたタイミングも重なり、元々住んでいたバンコクから離れずに生活できる環境だったことも、移籍を決める要因の1つになりました。」
2017年、タイ3部リーグのチャムチュリ・ユナイテッドへ移籍を決めた樋口さん。同チームとは2018年シーズンまでの2年間契約を結び、中心選手として活躍した。
また、チャムチュリ・ユナイテッド在籍中には、バンコク市内で子供向けのサッカースクールを開催。オフシーズンの期間には、子供の運動能力を伸ばす指導方法や運動能力開発について学ぶために、ドイツに足を運ぶこともあった。プロサッカー選手として活躍する傍ら、自分の可能性を広げることにも精力的に取り組んだ。
2018年シーズン終了時、樋口さんはついに現役引退を決意。プロサッカー選手としてのキャリアをタイでスタートさせてから、異国で8年間戦い続けた。
そして、現役引退後の自分が歩む道筋もはっきりと見えてきた。
「現役引退を機に、元々バンコクで取り組んでいたスクールを本格的に運営することも選択肢の1つでした。しかし、日本でもバンコクでもスクール運営をしている人は沢山います。自分の本当の価値を生み出せることは何なのかと考えたとき、その答えは ”自分にしかできないこと” だと思いました。それが、 ”タイでの外国人指導者” という道です。タイで8年プレーした経験を活かしつつ、タイ現地で外国人として指導者することは、他人に真似できることではないと考えました。」
サッカーと真剣に向き合い、自らの可能性を広げることを行ってきた結果、引退後の進む道を自ら切り開いた。それは、樋口さん自身が初めてタイに訪れたときと同じように、情熱を持って何事にも取り組んできた証である。
その熱い思いは、再びあの人の元に届いた。
2019年、樋口さんがプロサッカー選手として初めて所属したチョンブリーFCにて、「分析」という役割を担うチームスタッフとして同チームに加入。樋口さんにとってタイでの原点であるチームにて、指導者としても新たなる挑戦がスタートした。
その際、チームへ加入するにあたり、樋口さんを再度チョンブリーFCへ招聘した人物がいる。かつて、プロサッカー選手としてキャリアをスタートさせたときと同じように、チョンブリーFCでテクニカルディレクターを務める「ヴィタヤ氏」の存在が、樋口さんの新たなる挑戦に大きく関わっていた。
「自分が指導者の道に進むにあたり、まずはヴィタヤさんの元で一緒に働きたいと考えました。すぐにヴィタヤさんへ自ら直接コンタクトを取ったことで、チョンブリーFCでの新たなサッカー人生が始まりました。」
チョンブリーFCでは、1シーズンの時を過ごした。
その経験を活かし、2020年にタイ1部リーグのチェンライ・ユナイテッドにアシスタントコーチとして籍を移す。更に、2020年9月からはタイ2部リーグのカセサートFCにてアシスタントコーチとして活動している。
現在所属するカセサートFCでは、チームトレーニングのメニュー作成や、チーム分析などを担っている樋口さん。8年間の選手経験を経て、タイリーグのプロチームで指導者として活動するにあたり、樋口さん自身はどのようなことを感じているのだろうか。
「選手時代と同様に、自分が現地に適応することは常に意識しています。例えば、欧州トップクラブの環境や選手のクオリティーとタイリーグを比較したときに、後者は足りないものだらけです。しかし、欧州トップクラブがやっていることをそっくり真似しようと思っても通用しません。なぜならクラブや選手の歴史、背景がまったく異なるからです。アジアはまだまだサッカー後進国。足りない事実はある。その足りないものを、どのように補っていくかが僕たちアジアで活動している指導者の腕の見せ所。完璧ではない環境だからこそ、様々な工夫を重ね、トライandエラーを繰り返す。そこに魅力を感じています。」
異国の地で「指導者」として生きることは、決して簡単な道ではない。しかし、樋口さんは新たな挑戦を楽しみながらも、全力で戦っている。この前向きな姿勢が、ヴィタヤ氏との再会したエピソードが示すように、次のステージへ進むきっかけを自ら掴んでいることに繋がる。樋口さんの人間としての魅力が、指導者として活動する際の武器として光り輝いている。
樋口さんが現役選手だった2014年から、タイの恵まれない子供たちに対して、サッカーボールや不要になったユニフォーム集めてプレゼントする活動を開催してきた。
この活動は「Peace Ball Action Thailand」と称されており、ボールの寄付活動に留まらず、子どもたち向けのサッカー大会や1Dayクリニックを開催するなど、様々な活動を行ってきた。
※下記URLをクリックすると、「Peace Ball Action Thailand」のページにリンクします。
https://www.facebook.com/watch/peaceballactionthailand/
この活動を行う「きっかけ」は何だったのか、話を伺った。
「日本ではプロサッカー選手にはなれなかったのですが、自分はタイで夢を叶えさせてもらいました。その恩返しという意味も含めて、タイのために何かしらの形で貢献することはできないかと、他の日本人サッカー選手たちと話をしていました。その中で、たまたまフェイスブックで見つけたのが “Peace Ball Action” という活動でした。この活動は日本で行われていたので、自分が日本に帰国したタイミングにPeace Ball Actionの創設者の方に直接お会いして、タイでもPeace Ball Actionを開催したい旨を伝えさせていただき、現在の活動に至ります。」
2014年7月より、本格的に活動がスタート。当時、樋口さんが所属していたタイ・ホンダFCのホームゲームでは、「Peace Ball Action Thailand」の活動告知や募金箱の設置を行った。また、多くの日本人サッカー選手たちも樋口さんの思いに賛同し、タイの子どもたちに笑顔を届けている。
現役選手を引退してからも「Peace Ball Action Thailand」の活動は継続されており、2020年3月にはタイ最北部に位置するチェンライの山奥に住む子どもたちにサッカーボールを届けた。現在はコロナウイルスの影響によって活動が制限されているが、事態が収束した際には活動再開が待ち望まれる。
また、コロナ禍によってサッカー活動の規制が厳しかった2020年7月には、「何か今の自分にできることをしたい」という思いの元、サッカーに関する内容の電子書籍(タイ語)を作成。本の売上は、夏の大雨被害に遭われた熊本県(樋口さんの地元)に全額寄付をした。
更には、現在Jリーグのチームに所属する選手の個人分析をする活動も行っている。試合の映像を元に選手個人の分析を行い、その内容を選手個人にフィードバックする。樋口さん自身はタイに居ながらも、日本人選手の活躍をサポートし、間接的ながら日本・サッカー界の発展にも貢献している。
このように、現在の樋口さんの活躍は多岐にわたる。
今後、樋口さんはどのような方向に歩んでいくのか。将来の目標について話を伺った。
「一人の人間として、普遍的な目標は ”グローバルリーダー” になることです。そもそも、グローバルリーダーという定義が正しく定められているわけではありません。だからこそ、 ”樋口 大輝はグローバルリーダーだよね” と言われるような人間になりたいです。今後、日本は少子化で外国人の方々と共に働くことが当たり前になる世界が来るでしょう。自分の子供たちが大人になる時代、次の世代の人たちに対して、自分が残せるものは何なのか。それは、お金や名誉ではなく、自分の生き様を通じてこの世界を生ぬく力を見せることだと思います。未来の世界で活躍できるようなグローバルリーダーになることが、今の自分の大きな目標です。」
物事の選択を迫られたときには、研ぎ澄まされた「直感」を信じて、歩んでいく方向を定める。自分が想定していること以上の物事に直面したときには、その時々に応じて「適応」し、茨の道をも走り抜ける。
このようにして、異国の地を生き抜いてきた樋口さん。
熱い情熱と共に「サッカー人」として生きてきた樋口さんは、すでにサッカーという枠から飛び抜けた「グローバルリーダー」と称することができるだろう。それは、プロサッカー選手という自身の夢に海を超えてチャレンジし、現在も指導者という新たな道で挑戦し続けているからだ。
次世代の人たちに向けて、「生き抜く力」を魅せ続ける樋口大輝さんの活躍に、これからからも目が離せない。
■プロフィール
樋口 大輝(ヒグチ ダイキ)
1984年4月8日生まれ 熊本県出身
ポジション:DF(サイドバック)
■ユース経歴
麦島小学校
八代第三中学校
熊本県立鹿本高校
福岡大学
■社会人経歴
2007–2008 ガイナーレ鳥取(JFL)
2008-2010 佐川印刷SC(JFL)
■プロ経歴
2011 チョンブリーFC(タイ)
2012–2013 ウオチョン・ユナイテッドFC/ソンクラー・ユナイテッドFC(タイ)
2014-2016 タイ・ホンダFC(タイ)
2017–2018 チャムチュリー・ユナイテッド(タイ)
■スタッフ経歴
2019 チョンブリーFC(分析)
2020 チェンライ・ユナイテッド(アシスタントコーチ)
2020 カセサートFC(アシスタントコーチ)