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新型コロナウイルスの影響でリーグが中断された2020年4月、タイリーグが発表した「アジア人・歴代ベストイレブン」。
元日本代表の岩政大樹選手や、元韓国代表のキム・ドンジン選手ら錚々たる顔ぶれと肩を並べ、サッカーというスポーツの花形である”トップ下”のポジションに選出されたのは一人の日本人選手。
【Sho Shimoji】
目まぐるしく外国人選手が入れ替わるタイリーグで『結果』を残し、堂々のベストイレブンに選出された【下地 奨】選手は、なぜ海外で活躍することができるのか。
今回はその秘訣を探るべく、今日までの下地選手のサッカー人生を振り返る。
中学・高校生時代は名門ヴェルディユースでプレーしていた下地選手。しかし、高校卒業時はトップ昇格を果たすことができず、青山学院大学へ進学。
大学在学中に練習参加したサガン鳥栖からオファーが届き、2008年に同チームと契約。プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。しかし、サガン鳥栖に在籍した3シーズンでは、なかなかスタメンに定着することができず、思うような結果を残すことができなかった。
迎えた2011年、チームからは契約延長のオファーを受けていたが、「小さい頃からの夢である海外でプレーしたい」との思いから、海外移籍を模索する。
「Jリーグでプレーしていたブラジル人選手と対戦していて、”なぜこんなにもサッカーが上手いんだ!?”と疑問を抱いていました。きっと、直接現地に行かないと分からないこともあるはず。海外でプレーしたいという子供の頃からの夢を叶えるためも、南米に行くことを決めました。」
代理人の伝を頼りにパラグアイのスポルティボ・ルケーニョへ移籍。しかし、現地に滞在したのはたったの4ヶ月間。練習生としてチームには加入したが、結果を残すことができなかった。
そんな中、サガン鳥栖時代のチームメートだったブラジル人選手から「ブラジルに来いよ。」と声を掛けられる。
「このままパラグアイにいても状況は変わらないと思い、元々プレーしたいと思っていたブラジルへ行くことにしました。元チームメートも自分の状況を心配してくれていて、ブラジルではチームと契約できればしっかりと給料も出ると教えてくれたんです。」
2011年8月、ブラジルのサンパウロ州に本拠地を置くCAリネンセへ移籍。今度こそ、憧れの南米でのプレーが実現するかと思われたが、またしても下地選手にアクシデントが襲う。
「就労ビザが下りず、試合に出場することができなくなってしまって…。その手続きに時間がかかっていたことで移籍期間も終わってしまい、他のチームに移籍する事もできない状況となってしまいました。」
結局、CAリネンセでは試合に出場することができず、練習に参加するだけの日々。「公式戦に出場できないので、給料を渡すことができない」とチームから伝えられた。1秒も公式戦のピッチ立つことはなく、そのシーズンは終了。不完全燃焼のまま南米での1シーズン目を終えた。
2012年1月、ようやく下地選手は海外のピッチに立つことなる。
ブラジルのマットグロッソ・ド・スル州リーグに所属するECアグイア・ネグラに移籍。この際は、前年に起きたビザ問題を最初に解決させて、無事にチームと契約。念願の海外でプレーする夢をついに叶えることができた。ここに辿り着くまでに、日本を飛び出してから1年以上の時間を費やした。
ようやくブラジルでの公式戦のピッチに立つことができた下地選手。チームもマットグロッソ・ド・スル州のカップ戦を優勝し、翌年の全国リーグ出場権を得る。「来季も契約する」とチームから告げられ、シーズンを終えた2012年7月に日本へ一時帰国。ブラジルへ戻るまでには約半年の期間があったので、再度日本のJリーグでプレーできる場所を模索した。
「翌年に再度ブラジルでプレーすると決めていたので、空白になってしまう半年間は日本でプレーしたいと考えました。ブラジルで結果を残すことができたし、日本でもチームをすぐに決めれると思っていんですが、Jリーグのチームに5チームテストを受けたが全て駄目でした。」
この状況下で、更に追い討ちをかけるようにブラジルから連絡が届く。
「所属していたECアグイア・ネグラがある都市の市長でもあったチームの会長が、市の選挙で負けてしまった。その影響でチームは財政難となり、来季は給料が払えないと連絡がありました。日本でもブラジルでもチームが無くなり、急に自分はサッカー選手ではなくなってしまって…。南米では無給の期間も長く貯金は底をついていて、家族や子供もいたのでとにかく稼がないと生きていけなかった。そこで、すぐにアルバイトを始めたんです。その仕事が、銀座でのボーイでした。」
銀座でのアルバイトをはじめてから最初の1ヶ月は、サッカーボールに一度も触れる事はなかった。時々友人に誘われたフットサルで楽しみながら身体を動かす程度で、サッカーから完全に離れた生活を約半年間続けることとなる。
しかし、ただアルバイトに明け暮れていたわけではない。ブラジル時代から興味を持ち、勉強し始めていた『潜在意識』や『お金』について、本格的に取り組んだ。
「以前はただ漠然と夢を追っていたけど、そうではないんだと気付きました。勉強したことを通じて、脳の使い方や自分の力の発揮する方法を知りました。そして、もし再度サッカー選手としてプレーできるなら、”こうなりたい”という自分の夢を、もう一度明確に描き直しました。」
自分の夢を考え直したタイミングと重なる形で、知人を通じて「タイで契約できる可能性が高いチームがある」と連絡を受けた。下地選手は、「もう一度プロサッカー選手になりたい」という素直な思いを家族とアルバイト先に伝え、タイへ旅立つことを決意。
現地では複数チームのトライアウトに参加するも、実際にはすぐに契約を結ぶことができない現実が待っていた。移籍期間の終了が迫る中、ラストチャンスとして帯同していたチームにて、プレシーズン中の大会に出場。そのチームが、タイプレミアリーグ(1部)の名門・ BECテロ・サーサナFC(現:ポリス・テロFC)だった。
「BECテロ・サーサナFCは、元々DFの外国人選手を探していたこともあり、この大会が終わってダメだったら日本に帰国しようと思っていました。既に日本に帰る航空券も用意していたぐらいです。ただ、本当に最後のラストチャンス、という試合で運命が変わりました。」
その試合でBECテロ・サーサナFCは、前半終了時に0-1のビハインド。苦しい試合展開の中、後半開始から出場のチャンスが訪れる。下地選手は、そこから2ゴール1アシストの大暴れ。チームを逆転に導く大活躍を見せた。
試合終了後、チームのGMから「明日契約だ」と直接声を掛けられた。その言葉通り、2013年1月に同チームと契約。東南アジアのタイという新天地で、再びプロサッカー選手としてプレーする下地選手の姿が戻ってきた。
描き直した夢が、現実となった瞬間だった。
チーム入団1年目から結果を残す。個人ではリーグ戦で9ゴールを記録。タイリーグのオールスターにも選出され、世界のスター軍団と称されるイングランドのプレミアリーグ・チェルシーFCとの試合にも出場。数ヶ月前まで銀座でボーイをしていた男が、世界有数のトップチームと真剣勝負。当時チェルシーFCの監督は世界的名将、ジョゼ・モウリーニョ。まさに絵に描いたようなサクセスストーリーは、更に続く。
「翌年の2014年シーズンもBECテロ・サーサナFCと契約を更新しました。タイ2年目のシーズン開幕当初は試合に絡めない時期もありましたが、リーグ戦の第4節辺りでゴールを決めて、そこから結果を残し続けることができました。そして、一生忘れられないカップ戦を戦うことになりました。」
タイサッカー界の三大タイトルである『トヨタ・リーグカップ』。2014年大会、決勝に進んだBECテロ・サーサナFCは、タイの強豪ブリーラム・ユナイテッドを2-0で下して優勝。当時のチームメートだった現北海道コンサドーレ札幌でタイ代表のチャナティップ選手や、元日本代表の岩政大樹選手らと共に、優勝トロフィーを掲げた。
「決勝のスタジアムに着くと観客席が満員で驚きました。今までのサッカー人生で”決勝戦を戦ってタイトルを獲る”という経験が無く、前日は緊張で寝れなかったぐらいです。ある意味、自分自身との勝負でした。試合終了の笛が鳴った瞬間は、嬉しさのあまりにその場に泣き崩れました。」
BECテロ・サーサナFCで大きな結果を残した「Sho Shimoji」の名前は、一気にタイ全土へ知れ渡った。シーズンオフには、下地選手の元に複数のチームからオファーが届く。その中でも、一番最初に声を掛けてきたのが当時タイ・ディビジョン1(実質2部)のポリス・ユナイテッドFCだった。どのチームよりも早くオファーをくれたこと、待遇面で納得できる内容だったこともあり、2015年に同チームへ移籍を決めた。
このシーズンでも結果を残し、チームはリーグ戦を優勝。残念ながら、チーム内での問題が重なりポリス・ユナイテッドFCは2015年を最後にチームが消滅してしまったが、翌年も下地選手の下にはオファーが届く。
2016年、タイプレミアリーグ(1部)のチャイナート・ホーンビルFCへ移籍。下地選手自身はシーズンを通じて9ゴールを決める活躍を見せたが、残念ながらチームは降格争いに巻き込まれる苦しいシーズン。まだ残留の可能性があった残り2試合を戦う直前で、タイの国王が逝去されたことをきっかけにシーズンはそのまま終了。それに伴いチームは降格扱いとなり、翌シーズンは財政難から給料が支払えないとの通達を受け、2016年限りでチャイナート・ホーンビルFCを退団した。
2017年の前期は色々なタイミングが重なり無所属の状況だったが、後期より当時タイ3部リーグのウドンタニFCに加入。昇格決定戦でチームを勝利に導き、2部リーグへの昇格を決めた。2018年も前期は無所属だったが、後期より再びウドンタニFCに加入。更に翌年の2019年も同チームと契約を更新。背番号10番を背負い、チームの中心として活躍した。
「タイの各チームでプレーしてきましたが、やはり最初のBECテロ・サーサナFCでのインパクトが大きかったのではないかと思っています。正直、アジア人にはあまりゴールを決めるプレーが求められていなかった中、多くのゴールを決めることができた。また、10年近くタイトルから遠ざかっていたBECテロ・サーサナFCで優勝できたこと。この部分が、アジア人のベスト11に選出していただいたことや、外国人選手の入れ代わりが激しいタイで長くプレーすることができた要因だと思います。」
下地選手は今後どのような道に進んでいくのか。直接本人に話を伺った
「自分がサッカー選手として結果を残すために学んできたことを、必要としている他の選手やプロになりたい子供に向けて伝えていきたいです。既に直接コーチングしてきた人もいて、実際にプロになる夢を叶えた選手もいます。今後は、そのプログラムをより形にしていきたいと考えています。また、自分自身もまだまだサッカー選手として活躍したいです。残念ながら現在は新型コロナウイルスの影響でサッカー界がストップしていますが、夏の移籍シーズンに良いオファーがあればとても嬉しいですね。」
以前から下地選手はサッカー選手として活躍するために学んできた『メンタル』や『脳の使い方』について、SNSやYouTubeを通じて発信し続けてきた。現在はオンライン上で子供向けのサッカースクールや、結果を残したいサッカー選手向けにオンラインプログラムの配信などを行っている。そして、下地選手自身もサッカー選手として活躍する準備を行っている最中だ。
※下地奨選手・オンラインプログラムURL
http://sho-shimoji.com/neomental/lp/
何度も壁にぶつかり、それでも夢を諦めきれずに微笑みの国・タイへたどり着いた下地選手。
BECテロ・サーサナFCでの大活躍をきっかけに、多くの人たちを笑顔にしてきたが、今後も更に多くの人たちを笑顔に変えていくのだろう。そして、下地選手自身も再びピッチ上ではじける笑顔を見せる日が、そう遠くないと思わされる。
サッカー選手としてはもちろんのこと、一人の人間としての存在感や影響力がとても大きい。インタビューを通じて、そう感じさせられた。
進化し続ける男、下地奨選手の今後にも目が離せない。
■プロフィール
下地 奨(シモジ ショウ)
1985年8月2日生まれ 沖縄県出身
ポジション:MF
●ユース経歴
桜町サッカークラブ
ヴェルディジュニアユース
ヴェルディユース
青山学院大学
●プロ経歴
2008 – 2010 サガン鳥栖(日本)
2011 スポルティボ・ルケーニョ(パラグアイ)
2011 CAリネンセ(ブラジル)
2012 ECアグイア・ネグラ(ブラジル)
2013 – 2014年 BECテロ・サーサナFC(タイ)
2015 ポリス・ユナイテッドFC(タイ)
2016 チャイナート・ホーンビルFC(タイ)
2017 – 2019 ウドンタニFC(タイ)
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